〜憑神事変〜
作:十二屋月蝕様

全ては貴方の笑顔のために

「すべては貴方の笑顔のために」

それは、いつでもあなたの側に潜んでいます。
突然の腹痛、転倒による骨折、不注意による火傷、不運な交通事故、容体の悪化。
あなたの健康は、いつでも、どこでも害される危険にさらされています。
しかし、その一方で病院はいつも開いているとは限りません。ドクターも人間です。いつでも万全の状態とは限りません。
病院にたどり着いても、入院していても、ドクターが遅れてしまいあと一歩のところで…
でも大丈夫!もうそんなことは起こりません!
『メルクリウス医療システム』が、昼も夜も病院であなたを見守っています!
『メルクリウス医療システム』が、ドクターに代わってあなたを処置します!
『メルクリウス医療システム』が、入院中のあなたの容体を観察し、ドクターよりも早く対応します!
『メルクリウス医療システム』が、夜の病院を守ります!
『メルクリウス医療システム』!それは、『間に合う』医療を目指します!




夜。
並ぶ住宅の間を一人の女性が歩いていた。
スーツに身を包んだ、OL風の女だ。歩いている時刻から察するに、残業で遅くなったのだろうか。
彼女の耳には、表通りを行き交う自動車のエンジン音が届いていた。
だがそれは、住宅数軒を越えて表通りの騒がしさが届いてしまう程、辺りは静まり返っているということだった。
彼女はいくらか緊張した面持ちで、自身の家に向かって足を進めていた。
この辺りでは最近、通り魔が出ているのだ。既に先週までに二人が被害に遭っている。
彼女が被害に遭わない保証は、どこにもなかった。
「……っ!」
表通りの喧騒を意識しながら進む彼女の耳に、不意に小さな音が届いた。何かが固い物を踏むような音。
彼女は反射的に振り返った。
しかし、彼女の目に入ったのは、点々と並ぶ街灯と、その少し向こうに蹲る最近改装したばかりの大きな病院だけだった。
人影はおろか、猫の姿すらなかった。
「気の…せい…ね…」
震える声で無理やり胸を撫で下ろしながら、彼女は前を向こうとした。
だがその視界の端に、近くの家屋の塀の上、街灯の光が僅かにしか届かない場所で、何かが動いた。
彼女が反射的に首をめぐらし、何かの正体を見極めようと視界の中心に捉えた瞬間、塀の上にいた何かが飛び上がった。
「っ!!」
街灯の光の外から、自身に向けて飛びかかる何かに、彼女は喉の奥から悲鳴にもならない吐息を漏らすことしかできなかった。
表通りの喧騒が届く、住宅の合間の通りに、何かが倒れる音が響いた。




『次のニュースです。これで三件目です。県市の住宅街で、女性が何者かに襲われる事件が発生しました』
テレビに映るニュースキャスターが、視線をカメラと手元の原稿の間で往復させながらニュースを読んでいた。
『この地区での傷害事件は今回で三度目です。警察では、一連の事件を同一犯による連続通り魔事件と認定し…』
「こわいねー、ねーさま」
畳に座り、膝を抱えながらテレビを見ていた少女が、視線をテレビから外しつつそう声を上げる。
彼女の目の先には、文庫本を開く髪の長い少女がいた。
「うーん、まだ死んだ人がおらんけど、はよ捕まってほしいなあ」
文庫本を読みながら、彼女は返答になってるような、なっていないような言葉を発した。
『それでは、お知らせの後はエンタランキング!』
四角い画面の中、重い口調で事件の顛末を読み上げていたキャスターが、打って変わって明るい表情でそう言う。
一瞬の空漠を挟んで、少しだけ音が大きくなったような錯覚とともに、騒がしいCMが流れ始めた。
畳に腰を下ろしていた猫耳の少女、猫乃が少し顔をしかめ、リモコンで音量を少し落とした。
画面に映るタレントが、笑顔そのままに声だけを小さくする。
「ねーさまー、何読んでるのー?」
CMに飽きたのか、猫乃が髪の長い少女、美影にすり寄り、開かれた本の表紙を覗き込んだ。
「『われはロボット』…?」
「んー、勧められて読んどるんやけどな、難しくてようわからん」
眉間にしわを寄せながら、美影はページに並ぶ文字を視線でなぞっていた。
「ふーん…」
『それは、いつでもあなたの側に潜んでいます』
猫乃の声に被せるようにして、淡々とした言葉がテレビから発せられた。
『店頭による骨折…不注意による火傷…』
ちらりと美影が目を向ければ、暗い画面にしゅんしゅんと湯気を噴き上げる夜間や、いかにも滑りそうな濡れた床が浮かび上がっていた。
『あなたの健康は、いつでも、どこでも害される危険にさらされています』
浮かび上がっては消える、身近にある危険な状況とナレーションに、美影はこれが何のCMか判断が付きかねていた。だが、テレビから続いた言葉に、彼女はある推測を得た。
『しかし、その一方で病院はいつも開いているとは限りません』
そう、これは注意喚起を促すCMなのだ。昔からトラウマを植えつけるため、センセーショナルな構成にしてあるあのCMだ。
『病院にたどり着いても、入院していても、ドクターが遅れてしまいあと一歩のところで…』
そして、間を挟んでこう続くのだ。
「えーし…」
『でも大丈夫!』
「ええっ!?」
同時に重なるはずだったあのコールを裏切られ、美影は思わず声を上げて画面に顔を向けていた。
『もうそんなことは起こりません!』
明るく力強い言葉とともに、暗い画面に清潔な病院の廊下や、病室が映し出される。
『「メルクリウス医療システムが」、昼も夜も病院であなたを見守っています!「メルクリウス医療システムが」、ドクターに代わってあなたを処置します!』
無人の診察室と並ぶ聴診器が映し出される。
『「メルクリウス医療システムが」、入院中のあなたの容体を観察し、ドクターよりも早く対応します!「メルクリウス医療システム」が、夜の病院を守ります!』
空のベッドが並ぶ病室に、心電計のモニターが並ぶナースステーションが覆いかぶさる
『「メルクリウス医療システム」!それは、『間に合う』医療を目指します!』
そして最後に、羽の生えた杖に絡み付くリボンの紋章が映し出され、CMが終わった。
「え…今の…え…?」
「あー、やっぱりねーさまもあのCMだと思ったんだ」
予想と違うものを見せられて混乱する美影に、猫乃が笑いかけた。
「なんか、病院の新システムの紹介らしいよ」
「でも、病院のCMって…」
「いや、病院の新システム。実施実験していたのが、もうすぐ実用化出来そうだって新聞に書いてあったよ」
次のCMが始まったテレビから興味を失いつつ、二人は言葉を交わした。
「医者が居なくても大丈夫な病院、ねえ…どうなんかいな」
「ロボットが患者さんの面倒を見てるとか!」
「せやったら、もっとロボットを前面に押し出すやろうし…」
二人は推論を交わすが、結論が付かないままテレビではニュースが再開していた。
だが、二人とも完全にその内容への興味は失っていた。
と、その時、二人の耳を軽い電子音が打った。電話の呼び鈴だ。
「はいはい」
自然と美影が立ち上がり、居間を出て受話器を取った。
「はい、鈴華ですー」
『こちら大神だ。鈴華美影か?』
受話器の向こうから、顔見知りの刑事の声が響いた。
「そうよー。今日はどうしたん?」
『別の署から、少々協力要請が来ていてな…妖魔か憑神が絡む可能性があるらしい』
大神の言葉に、美影の目に一瞬鋭い光が宿った。
「…だいたい分かった。ほな、詳しい話は…」
『署でだ。来てくれ』
「了解」
簡単に言葉を交わすと、彼女は受話器を下ろした。
さて、少々忙しくなりそうだ。



「ニュースでもう知っているとは思うが、連続通り魔事件が発生している」
走行するパトカーの中、後部座席に腰掛けた美影の隣で、大神直斗は経緯の説明をしていた。
「被害者はいずれも、ほぼ同じ地域の住宅街の人通りのない道路で襲われている。凶器は鋭利な細い刃物で、三人とも手足や胴などをまっすぐに突かれていた」
「ふーん…でも、三人とも一命は取り留めたんやろ?」
大神から渡された簡単な資料に目を通しながら、彼女は言葉を返した。
「ああ、そうだ。数か所を刺されているにもかかわらず、傷はすべて大きな血管や神経から外れていた」
「犯人は医者かいな」
「かもしれない。だが、現場から僅かに魔力の気配が検出された」
三人とも全ての傷が致命傷ではない、という奇跡的な偶然を補いうる美影の予測に、大神はそう付け加えた。
「当初は所轄の連中も医学知識の豊富な者による犯行だと考えていたが、魔力の検出に大分プロファイリングが揺れたらしい」
「そりゃそうやろうな」
犯人が人間ならば、目的は私怨や金品などある程度限られてくる。
だが、魔力が検出されたということは、犯人は魔術に携わる人間か妖魔、あるいは憑神など広がってくる。
人間ならば魔術の儀式か研究か、妖魔ならばその存在欲望を満たすため、憑神ならば依代か自己増殖のため。目的が別れるため、種族を見誤れば犯人像の絞り込みがとたんに難しくなるのだ。
「それで、犯人の絞り込みのため俺が呼ばれたわけだが、ごくわずかな魔力しか分からなかった」
「それで…どんな感じやった?」
「それは言えない。お前にも見てもらって、どっちか判断してもらうからな。下手な先入観がない方がいい」
「そんなに薄いんなら、今回の事件とは無関係とちゃうかな」
「かもしれないな。だが三つの現場全てから、同一の痕跡が見つかっているからな」
美影の指摘に、大神は苦笑した。そして、彼は視線を車外に向け、続けた。
「ああ、もうそろそろだ」
美影が顔を上げると、いつの間にか車両は住宅街の中を進んでいた。
やがてパトカーが速度を落とし、止まった。
大神がドアを開いて車を降り、美影もそれに倣う。
「ここが最初の現場だ」
大神がそう言って、通りの一角を示すが、美影には何の変哲もない住宅街の一角以外何ものにも見えなかった。
「でー、被害者さんは?」
「そこに倒れているのを発見された」
大神の指し示した道路には血痕どころか痕跡のようなものすら残っておらず、大神に示されなければ気が付けなかっただろう。
「うーん、本当に残っとるんかいな…」
彼女はそうぼやきながら目蓋を下ろし、辺りの気配を探った。
目蓋の裏の闇の中、辺りの気配が浮かび上がってくる。
闇の中に色彩が、音色が、芳香が滲み出してくる。だが、気配は目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぐ物とは違い、鼻で見て目で聞いて耳で嗅いでいるかのように、少しだけずれ込んでいた。
立ち眩みや目眩の瞬間に味わう、五感の込んだ国も似た感覚の中、彼女は被害者が倒れていたという場所に意識を向けた。
すると人はもちろん猫、カラス、雀といった雑多な気配の痕跡の中に、ごくわずかな生き物とは違うモノの気配を美影は感じ取った。
「…見つけた…」
美影はそう呟くと、気配の探知をやめて目を開いた。
「どうだ?」
「んー…確かに人間の物やない魔力やったな…」
美影は混濁した五感が正常になるのを待ってから、大神に答えた。
「かなり小さかったけど、九分九厘憑神の魔力やと思う」
汚れた布でも、血染みと機械油の汚れの違いが付くように、美影には微かな魔力の痕跡がどちらか分かった。
「やっぱりそうか…」
大神も憑神という判断を下したのだろうか、数度頷いた。
「でも、やっぱり今回の事件とは関係ないんとちゃうかな?かなり小さいから、相当昔の物っぽいし」
「確かに痕跡自体は小さいが、俺の鼻ではかなり最近のものだと感じた」
何かを確かめるように、目を閉ざして大神はしばしの間をおいて続けた。
「それに、後の二か所からも同様の規模と質の痕跡が検出されている…まあ、実際に回ってみればわかるだろう」
彼はそう言うと目を開き、パトカーのドアを開いて美影に手まねきした。
乗れ、ということだろう。




そして、それから三十分も経たないうちに、二人は三つの現場を回った。
現場は本当に徒歩で行き来できるほど近かった。
「しっかし、三つの現場におんなし魔力が三つねー」
「やはり何か関係があるのだろう」
三番目の現場で、気配を探り終えた美影のつぶやきに、大神がそう言葉を被せた。
「でもなー、憑神にしては小さすぎるんよ。時間が経って消えかかってるかと思ったんやけど」
「しかし、どの魔力も俺は新しいものだと感じた」
「そこなんよ」
美影は大神に向き直り、腕を組みながら続けた。
「魔力の強い奴ほど残す魔力も強いんやけど、こない小さな魔力しか残さんのは小さい妖魔か消えかけの憑神ぐらいなんよ」
「痕跡は憑神のものだが、憑神の物にしては小さすぎる」
「そう。それに、仮にこんなに魔力の少ない憑神がいたら、何よりも最初に人を取りこんで魔力を回復するはずや」
「だが、被害者は三人とも被害は外傷のみ」
現時点で分かっている事実と、そこから得られる推論の微妙な乖離具合に、二人は顔を見合わせた。
「なんかちぐはぐやなあ」
「何か見落としていることがあるのかもしれない」
大神は顎に手を当て、軽く黙考して続けた。
「たとえば、憑神の痕跡は残っているが、犯人は憑神そのものではない、とか」
「…どういうこと?」
「つまり、憑神の残骸か何かを使って魔術的儀式を執り行おうとしているとか…」
首をかしげる美影に、彼はそう説明する。
だが、美影はうーん、と呻いてから否定するように頭を振った。
「それはちゃうと思うなあ。儀式に使うんなら、その場で殺すやろうし」
「何らかの印をつけておいて、後から同時に捧げる、というのはどうだ?」
「それは…被害者さんを調べんと分からんなあ…」
大神に渡された資料には、外傷については記されてはいたが、魔術的な処置については言及はなかった。
魔術関係が苦手な美影であっても、魔力の影響は見ることができるので、合えば分かるはずだ。
「そうか、だったら今から行ってみるか」
「へ?どこへ?」
大神の言葉に、彼女はきょとんと疑問符を浮かべた。
「被害者達だ。幸い三人とも、同じ病院に入院してる」
「同じ病院って…」
「あそこだ」
ごく自然な様子で、大神は片手を掲げて住宅街の向こう、表通りに面するように蹲る大きな建物を示した。
「カナミズ総合病院だ」



カナミズ総合病院は、第三の現場からパトカーで数分と掛からない距離にあった。
一度表通りに出てから駐車場に入る手間を考えると、下手すれば歩いて裏から入った方が早いかもしれないほどだった。
パトカーを降り、駐車場を抜けて病院に入る。二人を迎えたのは消毒液と、病気の臭いとも言うべき独特の臭気が混ざった、病院の空気だった。
だが、院内の床はピカピカに磨き上げられており、明るい照明と相まって、保養施設かスポーツクラブのような雰囲気を醸し出していた。
大神は美影を連れて広めの待合室を横切ると、その一角に設けられた受付で身分証を掲げて見せ、被害者三人の病室の場所を聞いた。
ナースは彼の求めに応じ、ファイルを探って被害者の病室を調べ始めた。
その間、手持無沙汰な美影は軽く待合室の中を見回した。
柔らかそうなソファには診察待ちの人々が座っており、自分の名を呼ばれるのを待っている。
壁の一角に掲げられた掲示板には、感染症や生活習慣病への注意喚起を促す啓発ポスターや、病院全体のスケジュール表が貼られている。
すると、掲示物をなんとなく眺めていた彼女の目が、一点で止まった。
それは、羽の生えた杖にリボンが絡み付く意匠が描かれたポスターだった。
『医療が変わります』という一文からすると、料金体系の変更を周知するポスターだろうか。だが、美影には大きく描かれた意匠が、なんとなく見覚えのあるもののように思われた。
「なんやったかなあ…」
「ありがとうございました。鈴華、行くぞ」
記憶を探りつつ呟く美影に、ナースから部屋番号を聞いた大神が声をかける。
「んあ?ああ、待ってな」
意識の中からポスターを追いやりながら、彼女は大神に並んで歩きだした。
「それで、被害者さんの病室は?」
「ああ、205号と302号、307号だ」
「ふーん、って三人とも普通の部屋やない」
廊下に掲げてあった案内板を見た美影が、被害者たちが集中治療室などといった特別な部屋に入っているわけではないことに気が付いた。
「ああ、さっきも言ったが、傷がどれもこれも重要なところを避けていたらしいからな。ある程度の処置さえすれば、あとはどうにかなるそうだ」
「んー、すごいなあ人体…」
二人は廊下を抜けて広めのエレベーターに乗ると、二階へ上がった。
そしてナースステーションに向けて軽く会釈して、205号室を目指した。
「205号室に入院しているのは、狭山明彦。二番目の事件の被害者だ…ここだ」
個室の前で足を止めると、彼はネームプレートを確認してから扉を叩いた。
『はーい』
「失礼します」
若い男の返答に大神が戸を開いた。ベッドの上にいたのは、高校生ぐらいの少年だった。
入院着の下を包帯で覆ってあり、顔にも頬を覆うように包帯が巻いてあった。
点滴がつながれた痛々しい姿であったが、本人はそこまでないらしく、開いていた漫画雑誌を閉じテーブルに置いた。
「鏡都府警の大神です。先日の事件について、お話を伺いに参りました」
「またですか」
事情聴取で何度も繰り返されてウンザリしているのか、彼は顔をしかめた。
「いえ、今回は犯人に関する情報を伺うだけです。それと、今回の事件には妖魔が関わっている可能性があるので、スペシャリストを連れています」
「鈴華です。よろしく」
大神のジェスチャーに、彼女は一礼して名乗った。
「とりあえず、私が話を伺いますので、狭山さんは楽にしていてください。鈴華、探知を頼む」
「りょーかい」
大神はベッドの脇の椅子に腰掛けると、手帳を懐から取り出しつつ口を開いた。
「事件当日の日時や場所については、何度も答えられたでしょうからよしとしましょう」
美影は部屋全体を「見渡せ」るよう、病室の隅に移動して、角を背に立った。
「学校からの帰りに、いつもの道を歩いていた。間違いありませんね?」
「はい」
美影は両の目を閉ざすと、辺りの気配を読んだ。
「では、襲われるまでのことを、可能な限り詳しく教えてください」
「はい。帰り道を歩いていると、何かに見られているような気がしたので立ち止まりました」
五感が混濁し、目に見えない気配が感じ取れるようになる。
「そして何となく塀の上の方を見てみると、暗闇の中に何かがいたんです」
闇の中に、人の気配を中心とした無数の気配が浮かび上がった。人の気配も、人だった気配も、院内にいくつも感じられる。
だが、それ以上に大きな気配が、辺り一帯から感じ取られた。視界が霧でぼやけるように、人の気配が大きな気配に薄く隠されてしまう。
おそらく、病院という特殊な環境のせいで建物全体に気配が染み付き、薄く広く影響を及ぼしているのだろう。
美影は意図的に薄い気配を無視して、無数の気配の中から、目の前の少年に意識を向けた。
「最初は猫か何かかと思ったんですけど、よく見ると猫にしては大きすぎるんです」
本人のものを中心に、様々な人の魔力の痕跡が彼の身体に付いている。
美影は雑多な魔力の中から、包帯の下の傷口付近と思われる部分に意識を傾けた。
「それで、なんだろうな、と思って近づこうとしたら」
彼の身体に刻みつけられた傷からは、現場に残っていた物と同じ魔力の痕跡が感じ取られた。
「何かが飛びかかって覆いかぶさって…器が付いたら体のあちこちが痛くて、動けなかったんです…」
「見つけた…」
「そうか…狭山さん、ありがとうございました」
美影の囁きに、大神はそう礼を告げた。
「何か犯人について、覚えていることはありますか?」
念のため、といった感じの質問をする大神の言葉を耳にしながら、彼女は気配を見るのをやめようとした。
だが、注視していた傷口から少しだけ視線をそらした瞬間、彼女は痕跡というには大きすぎる魔力の気配を見た。
現場に残っていた気配とは異なるが、憑神の気配だった。
「ええと、今思い出してみれば、人というよりは猿に…」
「っ!何か来とる!」
狭山の言葉を遮り、病室の入り口に向き直った。
憑神の気配が扉の向こう、廊下を渡ってこちらに向かっている。
美影は気配を見るのをやめると、五感の混濁を強引に押さえ込み、手にした錫杖を構えた。
「憑神か?」
「多分。やけど、違うやつや」
彼女の背後で大神が椅子から立ち上がり、狭山を庇うように位置を変えた。
狭山少年が、二人の緊張に困惑するが、二人は気にしない。
そして、二人の目の前にある扉から、トントンというノックの音が響いた。
「狭山さん、点滴の交換の時間です」
抑揚のない平坦な女性の声音の直後、扉が開く。
看護婦のようなセリフと共に姿を現したのは、看護婦ではなかった。
確かに、体を覆う白い衣服は看護婦の様であったが、その肩から先についているのは腕ではなく、幾本にも枝分かれした触手であった。
そして、額にへばり付いた勾玉状の装飾。
憑神だ。
「づぇぇぇい!」
気の籠った掛け声とともに、美影が踏み込みつつ手にした錫杖の石突を繰り出した。
刺突はまっすぐに憑神の鳩尾のあたりに食い込み、一点を中心に体をくの字に折り曲げさせながら突き飛ばした。
美影の手に残る重い衝撃からすると、相当のダメージを与えたはずだ。
だが、人間ならば肋骨を砕き胃の腑を破くほどの一撃でも、憑神にとってはひるませる程度の効果しかない。
その証拠に、憑依神は数歩下がってよろめきつつもどうにか踏みとどまり、姿勢を立て直している
「この――!」
続けざまの一撃を叩きこもうと、繰り出した錫杖を手繰り寄せ、握りを変える。
しかしその直後、彼女の耳を真横からの高い声が打った。
「何をしてるんですか!」
反射的に視線を向ければ、看護婦の一人が驚きにも似た表情で、美影に向けて声を発していた。
その剣幕に、彼女は思わず動きを止めていた。
看護婦は異形の看護婦に駆け寄ると、ふらつく体を支えながら声をかけた。
「大丈夫?」
「損傷は軽微です。問題ありません」
抑揚のない声で、憑神は看護婦に応じた。
「ここは病院ですよ!一体どういうつもりでこんなことを!」
「いや、つい条件反射で…」
「退魔士さんのようですけど、何もしていないのに攻撃するのは…」
「どうした、何があった?」
言葉を交わす二人の間に、男の声が割って入った。
視線をそちらに向けると、白衣を纏った壮年の男が歩み寄っているところだった。
「院長先生!実はこちらの方々が…」
「失礼しました。私は鏡都府警の大神で、こっちは退魔士の鈴華です」
病室から出てきた大神が、壮年の男にそう名乗った。
「ああ、警察の方でしたか。私は院長の金水です。それで、一体何があったのですか?」
「ええ、実は今度の事件について被害者の方に話をうかがっていたのですが、緊張していたところにこの…看護婦さんが入ってきたので、彼女が反射的に手を出してしまいまして…」
「成程、そう言うわけでしたか。確かにうちの職員の一部は、初めての方には少々刺激の強い姿をしていますからね」
「職員って、憑神やないですか」
「ああ、やはり退魔士の方にはご説明が必要なようですね。お時間を少々よろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
「まあ、かまへんけど…」
二人の返答に院長は頷くと、看護婦二人に顔を向けた。
「ではこちらの方々は私が引き受けよう。君たちは仕事に戻りなさい」
「はあ…かしこまりました…」
「了解しました」
院長の言葉に、人間と異形の看護婦は応じた。
「場所を変えましょうか、大神さんと鈴華さん」
「はい。それでは狭山さん、後日」
大神が病室の出入り口から離れると、異形の看護婦は開かれたドアから狭山の病室へ入って行った。
「それでは参りましょう」
金水院長は、そう告げると歩きだした。
「このカナミズ総合病院では、患者さんの健康管理や職員の補助のため、開発中のシステムを試験的に運用しています」
「それが、あの憑神?」
「はい。まあ、正確にいえば彼女もシステムの一部分ですが」
一行がレベータホールに着くと、院長はエレベータを呼び、乗り込んだ。
院長が最上階のボタンを押すと、戸が閉まる。
「一部、ということはこの病院には憑神が複数体いるのですか」
「ええ。全部で64体が常駐しています」
大神の問いに、院長は応じた。
「ろくじゅうよ…!?」
美影は院長の発した数字に、驚愕した。
それだけの数の憑神がいながら、彼女はその気配を察知していなかったのだ。
「ご安心ください、彼女達は皆、システムの制御下にあります」
「しかし、あれだけの数はともかく憑神ということは…」
「ああ、依り代の問題ですね」
大神の言わんとすることを察したのか、院長が先に言う。
「彼女らの依り代は、人間ではなく医療実験や外科手術の練習に使う人造人体です」
「人造人体?」
「はい、タンパク質と骨で作り上げた、有機物の人体模型です」
耳慣れぬ言葉に首を傾げた美影に、彼はそう説明した。
「さあ、着きました」
止まったエレベータから降りると、三人はしばらく廊下を進み、そ一角に設けられた扉の前で、院長は足を止めた。
扉には、「院長室」と書かれたネームプレートが掲げてある。
「お入りください」
鍵を開けると、院長は二人に入るよう促した。
言われるがまま、美影たちは院長室に足を踏み入れる。
院長室にあったのは、大きな机と数台のコンピュータに書棚、そして応接セットだった。
「少々準備がありますので、おかけになってお待ちください」
「失礼します」
美影たちがソファに腰を下ろすと、院長は机に向かった。
彼女は院長が何やら準備をしている間に、失礼にならない程度に院長室をぐるりと見回した。
壁には賞状や免許のようなものが掛けてあり、壁沿いに置かれた棚には写真が並べてあった。
どこかの会議場のような場所で、外国人と握手を交わす院長。
今よりいくらか真新しいカナミズ総合病院の前で、十数人の医師や看護師と一緒に並ぶ院長。
ベッドに座る少女と、そのそばに立って微笑む、今より若い院長。
おそらく彼にとって、何らかの記念日に撮影したのであろう写真が、並べてあった。
やがて院長が、小型のノートPCを手に二人の下へやってきた。
「これが、職員たちを管理しているシステムのモニタです」
閉じられていたコンピュータを広げると、院長はテーブルを挟んで二人の向かいに腰掛けながら、美影たちに見えるよう置いた。
ノートPCの画面には、病院全体の見取り図と、その中を移動する光点がいくつも表示されている。
「ご覧になれば分かると思いますが、こちらが当院の見取り図で、システム職員の位置を光の点で表しています。そして光の点にカーソルを置くと…」
院長はコンピュータのタッチパッドに指を置くと、カーソルを動かし、移動する光点の一つをポイントした。
すると、画面上に文字と数字の並ぶウィンドウが表示された。
「このように、システム職員の個体番号や現在の状況が表示されます」
「全員の状態が手に取るように分かる、というわけですか」
「はい、その通りです」
「せやけど、状態が分かるって言っても、暴走しているのが分かっても止められたりはできへんのでしょう?」
美影が画面上の光点を指しながら、そう問いかけた。
「いえ、その点は大丈夫です。システム職員はすべて、システムの管理下にあります。ここでの操作はできませんが、非常時は特定の個体を停止させることもできます」
「へえ…それで憑神が完全に制御できるとは思えへんけど」
「そうです。ただの管理ならば、彼女らも従いはしなかったでしょう」
美影の言葉に対する院長の肯定に、二人は微かな驚きを漏らした。
「力でねじ伏せ、支配するやり方では、必ず歪みが生じ破たんを招きます。ですので私は、生じる歪みが少しでも少なくなるように、彼女らを設計したのです」
「それは…どのように?」
「簡単なことですよ、『入院患者の世話と、退院時の見送り』が彼女らにとっての最大の喜びにしてやったのです」
ノートPCの画面上を移動する光点を眺めながら、彼は続けた。
「実のところ、このような監視システムなどなくても、彼女らは十全に働けるのです。ですが、まだまだ未熟な部分も多いため、このように各個体の状態を把握しているのです」
「ふむ…これほど大きい病院を持っていらっしゃるので片手間ばかりと思っていましたが、とても情熱を掛けられているようですね」
「ええ、この病院もシステムのために作ったと言っても過言ではありません」
大神の言葉に、金水院長は笑顔で続けた。
「私の…いえ、私たちの夢ですから、『メルクリウス医療システム』は」



その後、大神と美影は残る被害者の下を巡り、その傷が同一の憑神によるものであることを確認した。
だが、病院を訪れたことで犯人像の錯綜はさらに複雑なものになっていた。
「うーん、犯人が憑神で、目的が…なんやろ?」
パトカーの後部座席に座った美影が、眉間にしわを寄せながら呻いた。
「ろくな痕跡も残せないほど魔力は無いのに、人を吸収するわけではない。かといって増殖目的かと思えば、被害者さんには何の細工も見られない」
「それより気になるのは、病院の憑神よ」
現状をまとめる大神に、彼女はそう言う。
「あんなに沢山の憑神と人間を一緒にしておくとか、正気の沙汰とは思えへん」
「しかし、あいつらは患者の世話が最大の喜びなんだから、仮にシステムの管理を離れて暴走しても、せいぜい念入りに世話をするぐらいじゃないのか」
「ウチが心配しとるのは、暴走の方やない」
彼女は頭を振って続けた。
「憑神は、魔力が少なくなると人間に取りつく性質があるんよ」
「だから、入院患者の世話をあの憑神ナースに任せるのは危険だと?」
「そうや」
「だけどなあ…病院で被害が出ていない以上、俺たちはあの病院に何もできない」
大神は腕を組み、車両の天井を眺めながら呻いた。
「それより重要なのは、連続通り魔事件の方だ。まだ起こってもいない事件の心配をするより、起こった事件の解決が先だ」
「しかし、どないするん?被害者さんも、『塀の上に蹲ってた』とか、そんなことぐらいしか覚えてへんし」
「所轄で、今夜から人員を配備し、警戒に当たるそうだ。そこに俺たちも入れてもらうとしよう」
「やっぱり理詰めやなくて、犯人見つけてボコるんかいな…」
謎の多い事件のため、推理による犯人追及かと彼女は予想していたが、いつものように力による制圧のようだった。
「なに、今回の犯人は魔力の少ない憑神だ。謎の解決は犯人をどうにかしてからでもできる」
大神はそう言った。




その夜、美影は一人で住宅街の道を歩いていた。
いつもの巫女装束に錫杖を携え、懐には各種術符が忍ばせてある。
そして同時に、警察から貸してもらった小型無線機が、彼女の耳に引っ掛けてあった。
『こちら本部、第十二班、状況を報告せよ』
「こちら鈴華美影、特に異常はないで、大神さん」
耳にひっかけられたイヤホンからの音声に、美影はそう応じた。
『…異常なしと確認した、引き続き警邏に当たってくれ。あと、コードネームで無線には応じるように』
「はいはい」
彼女がそう応じると、耳元の無線機は沈黙した。
「ふぅー」
美影は足を止めると、ため息をついた。
大神によれば、事件と事件の間はほぼ三日だそうだ。よって、前回の事件から三日目である今夜、四件目の事件が起こる確率が高いらしい。
だが、事件現場もばらばらゆえ、このように幅広く人員を配置し、ひたすら範囲内を警邏するしかないというのはいかがなものだろう。
「まあ、しゃあないか」
美影のような優秀な退魔士や予知能力者でもない限り、ただの人間は人海戦術で憑神に挑むほかないのだ。
「それにしても…犯人の目的はなんやろう」
夜道を進みながら、彼女はポツリと漏らした。
魔力の枯渇しかけた憑神が、吸収するわけでもなく人を襲い、ただ傷つける。
被害者には魔術的な刻印もなく、後から印をつけた人間を一度にまとめて吸収するというわけでもない。
一体何が狙いなのだろうか。
「わからんなあ」
暇な警邏を堂々めぐりの思考でごまかしながら、彼女はそう呟いた。
「やっぱり誰かが憑神を操縦して、昔の恨みでも晴らしとるんやろうか」
しかし、彼女は脳裏で自分の説を否定した。
昼間、被害者に何の共通点も見られないことを大神から聞かされているのだ。
性別も年齢もバラバラで、あえて共通点を上げるとするなら三人とも人間で、今は同じ病院に入院していることだろうか。
「……うん?」
彼女の胸中を、何とも言えない感覚が去来した。
だが、それは直後に彼女の中から掻き消えた。
まるで、何かを言おうとして、何を言うべきだったのか忘れてしまった時のような感覚だ。
「なんやろう…」
何を自分が考えていたのか思い出そうとした瞬間、彼女の耳元で無線機が音を立てた。
『こちら本部!第七班が何者かに襲撃された!近隣の持ち場にいる者は、至急応援に迎え!』
大神の鋭い口調に、彼女は夜道を駆けだした。
脳裏に、あらかじめ叩きこんだ近隣の地図を思い浮かべ、彼女は口を開く。
「こちら第十二班!場所は!?」
『南町二丁目の二番地、南東の角だ!』
現場へ向けて、彼女は急いだ。
アスファルトを打ち鳴らし、夜を通り抜けていく。
そして、何度目かの角を曲がったところで、宵闇を通して路上に横たわる何かと、それに覆いかぶさる何かを彼女は見た。
それは警官と人にも似た何ものかだった。ただ、警官に覆いかぶさる何かは、両肩から先が複数に枝分かれし、その鋭く尖った先端を警官に向けて振りおろしていた。
「こちら美影!現場に到着!襲われている警官を保護し、応戦する」
『こちら本部!了解した!近隣の連中を急がせる!』
大神の言葉を半分ほど聞いたところで、彼女は勢いを増し、手にした錫杖で鋭い突きを放った。
走行で勢いを増した石突が、警官に跨る何者かの胴に深々と食い込み、バランスを崩して横転させる。
「大丈夫っ!?」
倒れ伏す警官に声を掛けるが、返事はなかった。暗いせいで負傷の程度はよく分からないが、一連の通り魔事件と同じ犯人ならば、死んでいることはないだろう。
だが、少なくとも放置しておいていい、というわけではない。
(はよどうにかせんと…)
枝分かれした腕を地面につき、身を起こす憑神をにらみながら彼女は考えた。
やがて、憑神が立ち上がり、美影と視線を絡めあわせる。
襲い掛かってくるのを迎撃するか、先手必勝でこちらから仕掛けるか。美影が逡巡していると、憑神は地面を蹴って跳躍した。
ただし、美影の方めがけて飛びかかるのではなく、傍らの塀の上に飛び乗るためだった。
「へ?」
拍子抜けする美影をよそに、憑神は塀の上を駆けて行った。
『こちら本部!第十二班、状況は!?』
「っ!逃走されました!今追跡します!」
我に返った美影が、そう無線機に告げながら走り出した。
『了解!負傷した警官は、今向かっている連中に任せる!』
これで、心置きなく追跡ができる。
美影と憑神の距離は数十メートルほど開いていたが、慣れていない塀の上を走っているせいか、憑神の脚は遅い。
道路を駆ける美影と、塀の上を走る憑神の距離が、次第に詰まっていく。
そして、懐に忍ばせた札が届くかどうか、という距離にまで縮まったところで、憑神がかくん、と進路を変えた。
住宅と住宅の間の、敷地を隔てる塀を伝っていったのだ。
「あ!待て!」
美影は勢いで通り過ぎそうになりながらも、内心近隣住民に謝りつつ、塀の上へ跳躍した。
すると彼女の目に、塀を伝い渡り、その向こうのさらに高い塀からどこかの敷地へ飛び込む憑神の姿が入った。
夜中とはいえ、左右の家屋の住人が窓の外を見ないよう祈りつつ、彼女も塀の上を伝い、敷地に飛び込む。
落下の衝撃を、膝を屈めて吸収しつつ、彼女は迎撃を警戒して錫杖を構えた。
だが、憑神の姿はどこにもなく、代わりに大きな建物が彼女の前にあった。
「…?ここは…」
憑神がいずこから襲ってきても対応できるよう、警戒を維持したまま彼女は辺りを見回した。
背の高い建物に、並んだ窓。初めて見る角度ではあるものの、見覚えのある建物の形に、彼女は一つの可能性に思い至っていた。
そして、彼女の耳に届いてきた救急車にサイレンに、彼女はここがどこかを確信した。
『こちら本部!第十二班、可能なら状況を報告』
耳元の無線が、そう音を立てた。美影は、いくらか緊迫した様子の大神に対し、冷静な口調で応じた。
「大神さん、犯人の出所見つけたかもしれへん」
『何!?今、どこにいる!?』
美影は大神の問いに、短く答えた。
「カナミズ総合病院…」
無線機の向こうで、大神が息をのむ音がした。





数十分後、パトカー数台とともに、大神がカナミズ総合病院を訪れた。
「全員建物を囲むように待機だ。出入りする奴から目を離すな」
引き連れてきた警官や捜査官へそう指示を下しながら、彼は駐車場から明かりの灯る病院入口へ向かった。
「待たせたな、鈴華。どうだ?」
「今んところ、出入りは無い」
目を閉ざし、気配を読むことで病院全体を見張っていた美影が、大神にそう応じる。
「確かにここに入っていったんだな?」
「ヤツが敷地に入っていくところを見たしな」
目を開きつつ、彼女は答えた。
「正式な令状が出てないから今のままでは逮捕は出来ない。だが、確実な証拠があれば話は別だ」
「大丈夫や。ここのシステムを逆手に利用するんよ」
二人は病院の夜間通用口を押し開き、病院に入った。
「夜分遅くすみません、鏡都府警の大神ですが、金水院長とお話をしたいのですが」
夜間窓口についていた看護婦に、大神は身分証を示しながらそう声をかけた。
「…ご用件は?」
「緊急の案件です。どうか協力お願いします」
いささか憮然とした態度の彼女と押し問答をしていると、薄暗い廊下の奥から何者かが小走りで現れた。
「君たちか!なんですか下のパトカーは!?」
白衣をまとった壮年の男、金水院長がいくらか慌てたように窓口前に立つ二人に問いかけた。
「ああ、金水院長、いいところに」
「なんだね!?ついさっき通り魔事件に巻き込まれた警官が担ぎ込まれたかと思えば、パトカーで乗り付けて。一体どういうつもりですか。見舞いは少人数で、面会時間中にしてもらいたい」
「いえ、今回は彼とは別件です」
金水の表情が、大神の言葉に怪訝なものに変わった。
「実は、一連の通り魔事件に関して、そちらの憑神たちが何らかの形でかかわっている可能性があるのですよ」
「…うちのシステム職員が、犯人だと言いたいのですか?」
院長の低い言葉に、微かながらも確かな怒気が入り混じった。
「いえ、まだ可能性がある、という段階です。ですが真犯人が他にいるかも知れないので、そちらの潔白を証明して捜査に人員を配備できるよう協力を…」
「では、まずは令状を見せなさい」
金水院長の言葉に、大神が言葉を詰まらせる。その様子に院長は頬の端を釣り上げた。
「ほう…どうやら、任意での事情聴取のつもりだったようですねえ。だとすれば、こんな夜遅くに応対してやる必要もないわけですね」
心理的な余裕の表れか、いくらか口調が昼間のように丁寧になっていた。
「ですが、ここで追い返してはあまり後味がよくありません」
彼は表情に浮かべていた微かな笑みを掻き消して続ける。
「私とシステム職員の身の潔白の証明のためにも、協力しましょう。ついてきてください」
彼はくるりと踵を返すと、廊下を静かに歩き始めた。
美影と大神も、そのあとに続く。
「金水院長、ご協力ありがとうございます」
「あなた方のためではなく、システム職員に掛けられている疑いを晴らすためです。勘違いなさらぬようお願いします」
(ツンジジイがデレよった…)
内心で美影がそんなことを考えている間にも、金水院長は続ける。
「それに、この近辺での連続通り魔事件の解決のためにも、互いに協力していくべきだと私は考えております」
一行がエレベータホールに着くと、金水はボタンを押した。すると待機していたエレベータの扉が開く。
「我々が被害者の方を治療し、あなた方が犯人を逮捕する。そんな良好な関係であるためにも、互いに疑いを持つのはやめにしましょう」
三人がエレベータに入ると、院長は白衣の懐からカードを取出し、エレベータの操作盤の下部に刻まれたスリットに挿し込んだ。
すると扉が閉まり、微かな浮遊感とともにエレベータが下降する。
「これからお見せするのは、当院のシステムの根幹部分である極めて重要な施設です。入院中の患者さんの命に係わりますので、決して何かに触れたりせぬよう、よろしくお願いします」
「分かりました」
「はーい」
院長の念押しに、美影と大神が応じた直後、エレベータの扉が開いた。
二人の前に広がるのは十数メートルほどの廊下と、その突き当りの壁に設けられた扉だった。
院長は無言のまま廊下を進み、扉の脇の壁に取り付けられた機械にカードを差し入れ、二人に見えぬよう体で隠すようにしながら何らかの操作を行った。
すると、軽い電子音とともに扉から金属音が響いた。
「お入りください」
金水院長が扉を開き、二人を招き入れる。
だが、扉の奥に広がっていたのは微かに何かの明かりがともり、微かなうめき声のような音が聞こえる闇だった。
「さあどうぞ」
院長の言葉に二人は視線を見合わせると、意を決して部屋に足を踏み入れた。
そして、美影が手の中の錫杖を握り直し、大神がその懐の金属の重みを確かめている背後で、院長が壁を探って照明を付ける。
蛍光灯により照らし出されたのは、机とその上に置かれたPC、そして五基のサーバーラックと床を這いまわる大量のケーブルに、部屋の中央に据えられた直径二メートルに及ぼうかという円柱だった。
円柱の表面には、白い表面の継ぎ目を思わせるラインが走っており、そのほぼ中央、扉と向かい合う位置に赤い光を放つレンズのようなものが埋め込まれていた。
「これが、『メルクリウス医療システム』の本体部分です。当院のシステム職員の状況から、入院患者さんの心電計など、そして扉の開閉状態に及ぶまで、すべての情報を管理しています」
主に白い柱を指示しながら、院長が簡単に解説する。
「さて…一連の通り魔事件に、当院のシステム職員が関わっている可能性がある、というお話でしたね?」
「はい」
「さっき起きた事件で、警官を刺しとった憑神がこの病院に逃げ込むところを見たからな」
「それで関係があると言っていたわけですか」
院長は頷くと、机に近づきキーボードに触れた。
すると暗かった画面に明かりがともり、パスワードの入力を求めるウィンドウが表示される。
彼はあっという間にそれなりの長さのパスワードを打ち込むと、エンターキーを押した。
ウィンドウが消え、様々な情報がモニタ上に表示される。
「事件が発生したのが、およそ一時間ほど前…でしたね?」
「そうです」
「では、二時間前からのログを再生してみましょう」
キーボードの上を院長の指が踊り、画面上に一枚のウィンドウが大きく表示される。
映し出されたのは、病院の全体見取り図といくつもの光点だった。
「システム職員の位置と、扉や窓の開閉状況を再生しています」
見取り図の上を光点が目まぐるしく動き、部屋と廊下の境などを光点がまたぐ際に、扉と思われる部分が赤く明滅する。
光点はいずれも、院内のあちこちを動き回っていたが、建物の外に出て行く様子は見られなかった。
「一時間が経過して…ここで負傷した警察の方が運び込まれたようですね」
救急車用の出入り口付近に光点が集まり、いくつかが固まりになりながら移動していく。
そしてある部屋に塊が入ると、出たり入ったりを繰り返していた。
「金水院長、これは?」
「救急患者の対応です。救急車から降ろした後、システム職員が処置室まで運びながら、必要な措置を施しているのです」
「必要な処置って…お医者さんは!?」
「当直医が当たっているはずです。もっとも、当直医が不在でもシステムの方である程度自動で判断を下せますが」
「せやから、テレビで『医者が間に合わなくても大丈夫』とかなんとか言っとったのか…」
妙な感嘆を覚えながら、美影は呟いた。
そして、画面上で二時間分の記録の再生が終わった。
「まあ、ご覧になられた通り、システム職員は事件の発生中にも外に出ることが無かったわけです。ご理解いただけたでしょうか?」
院長がそう言うが、大神は眉間にしわを寄せたまま、何やら考えているようだった。
「…大神さん?」
「すみません、院長」
大神がしばしの黙考を挟んでから、言葉を発する。
「もう一度、二時間分の記録を再生してもらえませんか?」
「はあ…よろしいですが」
金水院長は大神の求めるままに、キーボードを打って再び再生をPCに命じた。
画面上の光点が、再び動き始める。
「…再生速度を落としてください」
「?はあ…」
院長の操作によって、大神の求めに応じたように、光点の動きがゆっくりになる。
「現在、事件発生の三十分前ぐらいの様子ですよね?」
「ええと、そうですね…ああ、今二十分前になりましたが」
画面上に表示された時刻を確認しつつ、院長は頷く。
「では、ここ…一回のこの部屋にいる彼女は、何をしているんでしょう?」
ゆっくりと動き回る光点に紛れて、ある光点が大神の指先から動こうとしていなかった。
それはまるで、同僚の隙を見てサボっているかのようにも見えた。
「ええと、ここは備品倉庫ですから、備品の整理をしているのでしょう」
「…なるほど…それでは再生速度を元に戻してください」
「はあ…」
光点の動きが加速し、あっという間に事件発生の時刻を迎える。
程なくして、被害に遭った警官が担ぎ込まれ、光点の動きが慌ただしくなった。
「ここです」
大神の指先で、部屋に籠っていた光点が廊下に飛び出し、救急患者の受け入れ口へ移動していく。
「倉庫で何か仕事をしていたのに、それを投げ出して急患の対応に当たっているように見えますが」
「おそらく、同型のシステム職員のうち、受け入れ口にいちばん近かったのが彼女だったのでしょう」
院長はキーボードを打ってログの再生を止めると、光点をポイントして情報を表示した。
「メス、鋏など刃物系の器具のシステム職員ですね。患部の切開や縫合、非常時の衣服の裁断を行います」
「へえ?刃物付けた憑神が荷物整理ねえ…」
「…何かおっしゃりたいことがあるのならば、はっきり言っていただけませんか?」
大神と美影の言葉に、ついに院長はそう言い放った。
「了解しました…実はつい先ほど、鈴華が連続通り魔事件の犯人を追跡し、この病院の敷地に逃げ込むのを確認したのです」
「それで、当院のシステム職員に疑いを?」
院長は呆れた、とでも言いたげに失笑した。
「ログをご覧になったでしょう?誰も出入りしていませんよ」
「確かに、ログ上では誰も出入りしてへんな」
美影の言葉に、暗にログに手を加えたという真意を汲み取ったのか、院長の眉間に皺がよる。
「どうやら…納得はして頂けないようですね」
彼はキーボード上で指を躍らせると、表示していたウィンドウを全て消し、ロックを掛けた。
「現在、私から提供できる情報は以上です。これ以上はシステムの開発機密にかかわりますので、正式な令状がなければお教えすることはできません」
「な…」
急に強硬になった院長の態度に美影は声を上げようとした。
だが、彼女の前に突き出された大神の手に、彼女は進めようとしていた足を止めた。
「そうですか、かしこまりました。では、後日にもう一度伺うと致しましょう。夜分遅く済みませんでした。本日はありがとうございました」
大神は冷静な口調でそう言うと、一礼した。
「…表まで案内しましょう」
院長はそう低く言うと、椅子から立ち上がった。



病院の玄関で、金水院長はパトカーを見送った。
サイレンも鳴らさず、静かに通り過ぎていく車列を見ながら、彼は口中で呟いた。
「何か、対策が必要だな…」
大切な時期に、トラブルなどあっては困るのだ。
彼はパトカーの姿が見えなくなったところで、カナミズ総合病院の中へ戻って行った。




「クロやね」
「ああ」
病院から離れていく車中で、美影と大神が言葉を交わした。
院長の態度、憑神のログ、そう言ったもの全てが暗に犯人と首謀者が誰であるかを示していた。
「ログに手を加えて証拠隠滅しとるのは確実やろうけど、ちょっとお粗末やったね」
「まあ、時間がなかったんだろうな」
部屋に留まったままの光点のことを思い返しながら、彼はそう返した。
「とりあえず、明日令状を取ってから、院長とシステムを抑えるぞ」
「でも証拠はどないするん?システムのログは書き変えてあるやろうし」
「犯人と思われる憑神の刃の形と、今日被害を受けた警官の傷口を照合する。彼には悪いが、縫合した傷を調べさせてもらおう」
「可愛そうやなあ…」
縫い合わせてもらった傷口を開かれることを想像して、美影は軽く身震いした。
「まあ、これで院長を確保できればひと段落だ。後は動機なんかを明らかにしていくわけだ」
「これで院長がおとなしくお縄を頂戴すれば、ウチの出番はなしやね」
「まあ、一悶着はあるとは思うがな」
そう言葉を交わしたところで、美影の胸中に幾度目か分からない疑問が生じた。
「でも、本当に犯人…というより院長の目的って何やったんやろうなあ?」
事件の経緯を思い返しながら、彼女は続ける。
「憑神で何かするには、被害者さんに何の痕跡も残っとらんし、そもそも憑神自体が絞りかす程度の魔力しか持っとらんし」
「実は通り魔をやっていた一体だけが暴走していて、院長はそれを揉み消すために奔走していたというのはどうだ?」
「それは無いと思う」
大神の推論に、美影は首を左右に振る。
「暴走しとるんやったら、憑神はいの一番に魔力の補充をするはずや。やのにさっき警官を襲ったヤツは、ただ刺すだけ刺して逃げたんや。暴走しとるというより、逆に完全に制御されとるんやと思う」
「絞りかすのような憑神で人を傷つけて何がしたいのか…いや、逆に傷つけること自体が目的だったのか?だが何の共通点もない被害者を傷つけて…ん?」
大神はしばしの間呻くと、ふと気が付いたように顔を美影に向けた。
「そういえば被害者には共通点が一つあったな」
「何?全員人間やった、ってのはなしよ」
「当り前だ」
美影の冗談を軽く受け流すと、彼は続けた。
「被害者は、今夜の分も含めて全員カナミズ総合病院に入院している」
「そりゃあ…病院と現場がどれも近いからなあ」
上手く走れば、救急車よりも早く病院にたどり着ける距離に現場がそろっていたことを思い返しつつ、彼女は言った。
「俺もそう考えていた。だが、被害者を入院させることが目的だったとしたら、どうだ?」
「…何のために?」
「そこなんだよなあ…」
会心の推理を披露した大神の顔が、新たに湧いて出た疑問に曇った。
「カナミズ総合病院が経営難に陥っているというのなら、入院費や治療費狙いで新たな患者を招くため、とかなんだろうが…」
「憑神使うた新システムを開発してテストするだけの余力はあるんやろう?」
「そうだ」
第一の推理が否定されるが、大神はめげずに続ける。
「逆に、医療システムの優秀性を証明するために、急患を入れ入院患者を増やし、人為的に負荷テストを行っているとか…」
「でも急患は結構来とるらしいし、入院患者も百二十人ぐらいおるから、これ以上のテストは必要ないんやないかな?」
「いや、その通常状態でもテストとしては不満だったから、あえて行っているのかもしれん」
「あえて、って…どんだけ自分に試練課しとるん、あの院長」
大神の推測に、彼女はため息をついた。
「毎日の急患に、百二十…何人やったっけ?」
大神はスーツの懐から手帳を出すと、ページをめくって確認する。
「えぇと…百二十七、いや八人だ」
「そう百二十八人…百二十八人?」
大神の返答を、美影が繰り返す。
「そうだ、さっきの一件で警官が一人入院したからな」
「そこやない!ウチが確認したかったんは人数や!」
ごく単純な足し算もわからないのか、という気配を微かに孕んだ大神の言葉に、美影は首を振った。
「百二十八人って、あそこにおる憑神のちょうど倍やない!」
「そうだが…あ…!」
美影の言わんとすることに、大神も気が付いた。
「そう、あそこの憑神が魔力を補充して、一体ずつ手下を作るのにぴったりな人数や」
六十四体の憑神に、六十四体の手下。憑神の制御が完璧ならば、金水院長一人が憑依神百二十八体の戦力を手に入れることになる。
「ホンマなら、もう少し日取りや星の位置も考えるべき何やろうけど、明日にもウチらが令状を持ってきそうだって状況なら…」
「おい!病院へ戻れ!」
「は、はい!」
大神が、ハンドルを握る警官に向けて声を上げ、続けてパトカーの無線機に手を伸ばした。
「全車両に告ぐ!至急カナミズ総合病院へ進路を向けろ!」
パトカーがUターンし、遠心力が美影の身体に加わる。
続く急加速が身体を座席に埋め込もうとするが、カナミズ総合病院の患者全員が危険にさらされていることを思えば、どうということは無かった。
真夜中ということもあり、殆ど交通のない通りを、パトカーが走り抜けていく。だが、二人にとってはまだ遅すぎるほどだった。
「全車両に告ぐ!とにかく急いで病院を包囲しろ!可能な限り応援も呼べ!責任は俺が持つ!」
大神がパトカーの無線に向かって吠えると、パトカーの一団がさらに加速した。
程なくして、大通りに面した病院が近づいてきた。
パトカーが駐車場に滑り込み、警官たちがアスファルトに降り立つ。
「どうだ、鈴華」
大神もパトカーから降りながら、車両を挟んだ反対に下りた美影に問いかけた。
「今見とる…」
美影は大神の言葉より前から目を閉ざし、病院から放たれる気配を読んでいた。
「まだ、大丈夫…」
気配を隠しているのかもしれないが、少なくとも巨大な憑神の気配が無いことに、彼女は胸を撫で下ろした。
だがその直後、開かれた彼女の目が、さらに大きく見開かれる。
病院の正面玄関のシャッターが、勝手にゆっくりと下がり始めているのだ。同様に、玄関の左右に並ぶ窓にも、簡易シャッターが下りていく。
まるで、真夜中の来訪者たちを拒絶するように。
「鈴華!」
「了解!」
大神の呼びかけにすべてを察した彼女は、地面を蹴って一気に加速し、正面玄関に詰め寄った。
そして腰の高さほどまで下がったシャッターに滑り込む。ただし、おそらく開かないであろう自動ドアのガラスに向けて、錫杖の石突を突き出しながらだ。
ガシャン、とけたたましい音とともに安全ガラスが砕け、細かい破片の中を彼女が滑りぬけていく。
美影の長い髪までもが病院の中に入り込んだところで、完全にシャッターが下りた。
「しもた…!」
先に懐の身縛りの術符でシャッターの動きを封じておくべきだったと思うが、もう遅かった。
『鈴華!鈴華!』
「大神さん!」
立ち上がる美影の耳元で、付けっ放しだった無線機が声を上げた。
『怪我はないか!?』
「大丈夫、無事入れたわ」
立ち上がりつつ、彼女は応じた。
『そうか、ならばお前は「憑神を使った人体実験容疑」で院長を逮捕してくれ。こちらはシャッターを開けるよう院長と交渉しつつ、シャッターをぶち破る許可を申請する』
「りょーかい…って、緊急事態ってことでブチ破れんの?」
『残念だが、俺たちは院長の逮捕は出来るが、医療施設を破壊することは認められていないのだ』
「役所手続きって、面倒やなあ…」
援軍が来そうにないことにため息をつきつつも、彼女は砕けたガラスの破片を踏みしめながら歩き出した。
『だが鈴華、お前はもう病院に入り込んでいる。あとは憑神を退けて院長さえ逮捕してしまえば、建物の損傷も「憑神との戦闘によるもの」として見逃してもらえる』
「つまり、いくらでも壊してもOK?」
『死人が出ない程度ならばな』
間髪いれず、大神が注意の言葉を入れる。
『まあ、可能な限り突入を急ぐ。それまでどうか持ちこたえてくれ』
「突入より先に逮捕までしておいてやるわ」
『あまり無理はするな…』
言葉半ばにして、不意に大神の声が断ち切られた。
「大神さん?大神さん?」
美影は無線機を押さえて呼びかけるが、返答はなかった。
何らかの妨害が行われているのだろうか?
「しゃあないなあ…」
無線が通じなくなったのは少々不安だが、いつものように単独で潜入しているんだと考えなおすことにした。
だが、相手は事実上百二十八人の人質を抱えており、下手な動きは入院患者の命を危険にさらすばかりか、憑神の強化と増殖につながりかねないのだ。
無線を妨害したということは、美影の侵入に気が付いているのだろうから、多少強引でも院長室まで一気に踏み込むべきだろう。
もしくは、侵入には気が付いておらず、念のためで無線を妨害している可能性に賭けて、身を隠しつつ院長室まで向かうか。
逡巡する美影の耳に、金属の軋む音が届いた。
玄関のシャッターはすでに降りているし、そもそも音の発生源は彼女の前方で、玄関とは真逆だ。
彼女は常夜灯の灯る無人の待合室を透かし見て、音の出元を探った。そして、徐々に降りつつある待合室につながる出入り口のシャッターに、彼女は気が付いた。
どうやら完全に美影の侵入は気が付かれているらしく、彼女を閉じ込めるつもりのようだ。
彼女は床を踏みしめ、駆け出し、一気に加速した。
じりじりと下がっていくシャッターとの距離をあっという間に詰め、間に合わなかった時のための身縛りの術符を指に挟んだまま、美影はシャッターをくぐって廊下に滑り込んだ。
シャッターの降りる音が彼女の背後に回るが、それとは別な金属の軋みが彼女の前方から響く。
彼女の入った廊下を分断しようとするように、右手の防火扉と真正面のシャッターが閉まりつつあるのだ。
真正面の診察室につながるシャッターはすでに半ば以上降りており、もう間に合わないのは明らかだった。
だが、右手の病棟へつながる廊下への防火扉は、まだ間に合う。
美影の脚が床を蹴り、防火扉の隙間を通り抜け、病棟へ続く廊下に入り込む。
しかし一息つく暇もなく、彼女は走った。廊下の突き当たり、病棟と廊下を隔てる防火扉もまた、閉まりつつあったからだ。
廊下を駆け抜け、防火扉に滑り込む。
入った先はエレベーターホールで、病室につながる廊下への防火扉はすでに閉ざされていた。
背後で扉が完全に閉まるが、彼女は足を止めて一息ついた。とりあえずの目的地に着いたからだ。
目指す先は、最上階の院長室。エレベーターは全部で三基。そしてその隣に階段がある。
エレベータで向かうか、階段で上がるか。
呼吸を整えつつ考える美影の前で、並ぶエレベータの扉が三枚とも開いた。
しかしその向こうに納まっているべき筐体の内側は無く、ただ空虚な闇が口を開いているばかりだった。
「…は?」
何が起こったのかわからず、彼女はエレベータに歩み寄り、闇の中を覗き込んだ。
廊下に灯る常夜灯の明かりが、最上階へと続くエレベーターシャフトの内側と、地下で止まっているであろう筐体の天井裏を照らしていた。
「ああ、なるほど…下で止めて、扉を開いたんやな…」
シャフト内部にはメンテナンス用の梯子が設けてあったが、登って行ってエレベーターの内側の足場から扉を開けるのは、かなり難しそうだ。
爆術符があれば容易だったのだろうが、今回は持ってきていない。
それに、登っている最中にエレベーターを動かされれば、シャフトの天井と筐体の天井に挟まれてしまうだろう。
「その手には乗らんで」
美影は相手の策略を一通り読みとると、シャフトから離れた。
そして、階段に足を踏み入れる。階段の内部には照明として蛍光灯が点々と設けてあり、最上階まで続く空間を薄暗く照らし出していた。
彼女は一度折り重なる階段を透かして最上階を仰ぎ見ると、上の階へ向けて登り始めた。
リノリウム張りの段を踏みしめ、靴を鳴らしながら登っていく。
程なくして、一階と二階の間の踊り場に至った時、下方からばたん、と何かの締まる音が響いた。
見やると、一階のエレベータホールにつながる扉が閉ざされていた。逃がす気はない、と言うことだろうか?
美影が相手の真意を読もうとした瞬間、目の前が闇に塗りつぶされた。
階段を薄暗く照らしていた蛍光灯が消えたのだ。いや、消されたと言うべきだろう。
暗闇の中、彼女は顔を上げるが、階段と階段の間に見えていた最上階は黒の中にまぎれている。
「あちゃー…閉じ込められたかなあ…」
彼女はそうぼやくと、闇の中で目を閉ざした。
五感が流転し、辺りの気配が感じ取れるようになる。
意図的に研ぎ澄ました彼女の感覚が捉えたのは、闇の中に等間隔に並ぶいくつもの人間の気配と、その間を移動する微かな憑神の気配だった。
どうやらまだ、患者を取りこんではいないようだ。
彼女は一通り院内の気配を読むと、顔を上げた。
上の階、階段の出入り口と思われるところに、二、三体ずつ憑神の気配がたむろしているのが見える。
闇の中、どうにか階段を上ってきたところを襲うつもりのようだ。
「うーん、回り道探すしかないかなあ…」
病院の見取り図を思い出し、気配の配置と重ね合わせながら、美影は迂回路を探った。
カナミズ総合病院に階段は複数あるが、憑神が見張っているのはここだけのようだ。
顔を下に向けると、一階の階段出入り口にも憑神がいつの間にか待ち構えていた。
だが、その更に下、地下には憑神の気配はない。
見取り図では病院の地下階にはいくつか階段がつながっていたはずだ。一度地下まで下りて扉をこじ開け、別の階段で最上階を目指すべきだろう。
その階段でも待ち構えられていた時は…
「そん時はそん時や」
いつも通り、錫杖と術符で暴れるだけだ。
彼女は闇の中、つま先で階段を探り探り、ゆっくりと地下に向けて降りていった。
一段ごとに、階段出入り口で待ち構える憑神の姿が近付き、真横を過ぎ、頭上へと上がっていく。
階段の縁をつま先で探り、手すりを握りながら足を下ろす。
やがて、手すりが途切れ、つま先がどこまでも続く床面に触れた。地下に着いたのだ。
「えーと…」
暗闇の中、壁を手で撫でて出入り口を探した。
コンクリートを撫でていた指先が、金属の冷たさに触れる。
金属とコンクリートの境をなぞると、それはちょうど扉の形になった。
「おー、あったあった…っと…?」
扉の表面を撫で、やっと見つけたドアノブを回すと、閉ざされていた扉はあっけないほど簡単に開いた。
他の階で待ち伏せしているから、ロックを掛けなかったのだろうか。
「拍子抜けやな…」
彼女は気配を探るのをやめると、目を開いた。
階段の暗闇に慣れ切っていた目が、常夜灯の僅かな光にくらみ、微かな鈍痛を生む。
美影はしばしその場に留まって両目を明かりに慣らすと、そっと防火扉を後ろ手に閉めた。
左右に続く廊下で、彼女は辺りの様子をうかがった。先ほどまで気配を探知していた時は、この辺りには何もいなかった。
だが、階段を抜けたことに気が付いた連中が、すぐにでも憑神を差し向けてくる可能性がある。
彼女は脳裏の病院見取り図から、もっとも近い階段を選び出し、そこに向けて移動し始めた。
殺風景なコンクリートむき出しの壁と床に、妙に白い蛍光灯の照明。
どことなく温もりを感じさせた地上の内装と違って、ここはどこまでも無機的であった。
「……」
物音に注意を払いながら、美影は「資料室」「第二倉庫」などと表札の掲げられた扉の前を通り過ぎていく。
可能な限り急ぎつつも、なるべく忍ばせた自身の足音のほかには、何も聞こえない。
やがて、廊下につながる袋小路の通路の前を通り、階段へ至る角を曲がった。
しかし、彼女を迎えたのは階段などではなく、無慈悲に通路を妨げるシャッターだった。
「…っ!」
胸中で膨れ上がった嫌な予感に、彼女は踵を返し、来た道を戻る。
だが、角も曲がらぬうちに彼女の耳を何かが叩きつけられるような金属音が打った。
遅れて美影が角から出ると、通路の先で行く手を阻むように折りているシャッターが目に入った。
閉じ込められてしまった。
「しもた…」
正面玄関からここまで、延々と自身が誘導されていたことに、美影はいまさらながら気が付いた。
ゆっくりしまって行く扉やシャッターに、ぎりぎりのところで間に合う幸運。
恐らく敵は、美影を病院のどこかに拘束するために、わざとそうしていたのだろう。
「えーい、開かんかなあ…」
通路を戻り、階段との間に立ちふさがるシャッターの前に屈むと、彼女は指を引っ掛けて力を込めた。
だが、シャッターはがっちりと固定されているかのように動かない。
力で破れないものかと拳を固めて軽く叩くと、若干重い音が響いた。どうやら厚みもそこそこあるらしく、錫杖や彼女の体術だけでは破れそうにない。
爆術符を持ってきていないことに、彼女は何度目か分からない溜息をついた。
もう、院長逮捕のためにシャッターを破る許可を大神たちが突入するまで、ここで待つしかないのだろうか?
「まあ、他にも出口があるかもしれんし…」
一抹の期待を胸に、彼女は立ち上がった。
二枚のシャッターに隔絶されているとはいえ、この廊下につながる袋小路には部屋がいくつかある。
そこを調べれば、シャッターを開けられるようなテコの代わりになる物や、上手くいけば外につながるダクトを見つけられるかもしれない。
彼女はやや急ぎ足で廊下を戻り、袋小路となっている通路に入った。
通路は幅二メートルほどで、奥行きは数メートル。左右に扉が一枚ずつあり、突き当たりにももう一枚あった。
左右の扉に掲げられた「第3資材庫」と「倉庫」のネームプレートと、突き当たりの扉が、天井の蛍光灯によって照らされている。
美影は袋小路を進むと、向い合せに設置された二枚の扉の前で止まり、それぞれのドアノブを握って揺すった。
もちろん鍵がかけてあり、ドアノブは回るものの、何かに引っかかったように動かない。
力ずくならば破れるかもしれないが、それは三枚目を試してからだ。
彼女は「倉庫」の扉のドアノブから手を離すと、袋小路の突き当たりに目を向けた。
取りつけられた扉にはネームプレートも何も掲げておられず、スライド式の蓋のついた覗き穴らしき小窓が設けてあるだけだ。
この病院の扉は、院長室から倉庫に至るまで、何らかの表札が掲げてあった。だが、この扉だけは何もなかった。
「ここは…なんやろう?」
胸中の疑問に、彼女はそう呟いた。
まるで、何かが閉じ込めてあるような作りで、いやな予感がする。
院長が憑神の失敗作を閉じ込めているのだろうか。
美影は、ドアノブに触れる前に、扉に取り付けられた覗き窓から中の様子をうかがうことにした。
階段を下りているときに見た限りでは、少なくとも、地下に憑神の気配はなかったが、可能な限りおぞましい物との遭遇は避けたかった。
覗き窓の蓋に指を掛け、力を込める。すると金属の擦れる音を立てながら、覗き窓が開いた。
顔を横長の穴に寄せると、コンクリートむき出しの殺風景な部屋が彼女の目に映った。
向こうの壁に接するように、簡易ベッドが置かれている。
部屋の主が寝るために置いてあるのだろうが、こんな時間だというのにそこは空だった。
それもそのはず、この部屋の主は現在、部屋の中央に置かれた椅子に腰かけているからだ。
両腕を胴に巻きつけるようにして動きを封じる方式の拘束服に身をくるんだ何者かが、扉と向かい合うようにして椅子に腰かけ、深くうなだれている。
「ん?朝食には早すぎるようだけど…何の用かな?」
覗き窓の開く音を耳にしたからか、何者かがうなだれたまま口を開いた。
「脱走を警戒して、抜き打ちの見回り?いや、最強の退魔士が近くにいるようだから、私を彼女に滅殺させるつもりかな?」
ふふふふ、とそれは笑い声を洩らしてから、続ける。
「拘束服で縛り上げ、地下室に放りこんでもまだ足りないとは…どうやら院長先生は心配性のようだな…」
「アンタ、何やっとるん?」
「ん?美影くん?」
うなだれていたそれが、美影の言葉に顔を上げた。
「あれ?何で美影くんここにいるの?」
覗き窓から見える美影に向けて、ばったり道端で出会ったかのような気軽さで声を上げてたのは、美影が割と見知っている妖魔だった。
「気配が近かったけど、上にいるかとばかり…」
「まあ、ちょっと仕事で来とるんやけど…って、何でアンタここにおるん!?」
最近見かけなかったことを今更ながら思い出しながら、彼女は扉越しに問いかけた。
「いやぁ、この間ここに入院している知り合いを見舞いにきたんだけど、帰りにリハビリ室に置いてあったピアノに何となく触ってみたら、通りがかった屈強な看護夫に『君はリハビリが足りないようだ』ってとっつかまってね…」
「それでこんなところにブチ込まれたんか」
「いや?ここに入れられてるのは、二週間で十回も脱走試みたからだよ」
「多っ!?」
試みた脱走の回数に、彼女は思わず叫んでいた。
「まあ、私はそんな訳でここにいるわけだけど、美影君はどうしてここに?」
「ええと…」
彼女は一連の出来事について話すべきか、少々迷った。
「ああ、話せないのなら無理に話さなくてもいいよ、美影君」
言い淀む美影に向けて、彼はそう気軽に声を掛ける。だが美影は、その発言から意識が逸れていた。
言葉を紡ぐ彼の口から、靄状の物が溢れだしたのだ。
「人にはいろいろ事情がある。言いたくないことは言わなくていい」
靄はぼんやりと塊を成し、文字のようなものを形作った。
それは『君の事情は大体知ってる。廊下は盗聴されているかも』と読めた。
「まあ、君が助けてほしい時はそう言ってくれればいい」
靄が形を変え、『「助けはいらない、とりあえず自分で何とかする」と言って、後は静かに』と文章を紡いだ。
「…助けはいらんなあ、ウチ一人でなんとかするわ」
彼女は一応、指示どおりのセリフを紡いだ。
「そうか…なら気が向いたらまたここに来るといい。いつでも待ってるよ」
靄が蠢き、『この中は盗聴されてない。扉は押せば開く』と文を成した。
視線を下ろしてみるが、扉は廊下側に向かって開くように蝶番が取り付けてある。
美影はしばし迷ってから、文の通り押してみた。
すると扉は、蝶番ごと部屋の内側に向かって外れた。
『覗き窓を閉めて。中に入ったら扉を戻して』
靄の指示通り、美影はドアノブを握ったまま片方の手で覗き窓を閉めた。
そして外れた蝶番側からドアを回って室内に入ると、扉をドア枠に押し込んだ。
「ようこそ美影君、この部屋は盗聴されてないから安心してほしい。これでやっと自由に喋れる」
入ってきた美影に、それはやや嬉しげに言った。
「廊下で盗聴も怪しいのに、この部屋は大丈夫って…」
「何、監視カメラを避けて脱出を試みていたのに捕まったことがあってね、マイクなりなんなりが廊下に仕込んであったんだろう。美影くんも心当たりがあるだろう?」
言われてみれば、真っ暗な階段や地下の廊下には、ぱっと見カメラのようなものはなかった。
美影の目の前にいる妖魔の言うとおり、マイクかセンサが設置されてあり、それで美影の位置を見ているのかもしれない。
「でも、この部屋が大丈夫っていうのは?」
「うん、三日前にこの部屋にぶち込まれてから、一時間ごとに奇声を上げてみたんだ。最初の二三度は看護夫が飛んできたけど、それきり放置されるようになったんだ。放置されてから二時間ぐらい歌ったり叫んだりしたけど、何の反応もないところを見ると、この部屋のマイクはオフになってるらしい」
「なんてまあ、暇なことを…」
彼女はやれやれと頭を振った。
「まあ、おかげである程度自由に動き回れるようになったし、その扉の細工もできたからね」
それは、雨が降っていたので傘をさして歩いた、とでもいうかのように、着やすく応じた。
「それより美影君、ここから出たいのではないのかい?この拘束服を脱がしてくれれば、手伝ってあげるよ!」
彼は両腕を胴に巻き付けたまま、もぞもぞと蠢いた。
「手伝うって…アンタ、十回も脱出失敗しとるんやろ?そんな穴だらけの計画には乗れんわ」
威嚇する芋虫のような動きに、美影は嫌悪感を覚えつつ、そう応じた。
「いやいや、美影君、十回の失敗はあれと同じだよ。アクションゲーム。ステージをクリアするまで、何度か失敗してコースを覚えるだろう?」
「それで十一回目なら脱出できるって?」
「うむ、脱出するたびに病室を変えられたお陰で、病院の構造は九分九厘把握した」
椅子に腰かける拘束服の芋虫は、自信たっぷりに頷く。
「施設の抜け道やセキュリティの配置、看護師の順回路に連中の死角や隠れ場所まで完全に覚えたから、脱出どころか院長の部屋を荒らして何食わぬ顔で戻ることも可能だ!」
「ちょっと待て、院長の部屋荒らして、ってここから院長室まで行けるん?」
それの言葉に、美影はがばという擬音が付きそうな勢いで尋ねた。
「うん、まあちょっと手間はかかるけどね」
「行けるんやね」
「美影君が行きたいってのなら案内するよ?その前に両腕を解放してもらう必要があるけどね」
彼女は返答の代わりにそれの側に歩み寄り、身を縛る拘束服の背中に手を伸ばした。
美影の指が拘束服の袖を固定するベルトを、金具から解放した。
「ひゃほーい、自由だ。美影君、ありがとう!」
俊敏に椅子から離れ、距離を置く美影に向けて、妖魔は自由になった両腕をぐるぐると回しながら、そう声を上げた。
「お礼はええから、とっとと院長室まで案内してや」
「ああもちろん!でもその前に、ちょっと…」
「?」
そいつは拘束服の袖を掴むと、分厚い布地を引き裂いた。そして掌ほどの布地を、指で何かを描くようになぞった。
「何しとんの?」
「君の代わりに廊下を歩き回ってくれる、とても便利な魔術を構成している。これを部屋の外に逃がしておけば、まるで人がいるかのように音を立ててくれるから、しばらく警備を誤魔化せるんだ。
…できた」
妖魔は布切れから指を離すと、その場に屈んで、そっと床の上にそれを置いた。
布切れにはいつの間にか、同心円から成る黒い模様が描かれていた。それの指先はきれいなものだったというのに。
「………」
胸中で疑問符を浮かべる美影をよそに、それが低く何事かを、呻くように唱えた。
すると布切れの模様がもぞりと蠢き、尺取り虫のように動き始めた。
「うわ!キモ!」
「まあまあ、気にしない気にしない」
生々しい布切れの動きに美影は声を上げるが、妖魔は気軽にそう言いながら扉に歩み寄り、ドアノブに手を掛けた。
そして、ドアをドア枠からひきはがし、這いずる布切れが出ていくのを見送った。
「よし」
ドアを枠にはめ込むと、不思議なことにその向こうから、コツコツと靴の鳴る音が響いてきた。
「これでしばらく稼げるはずだ」
ドアを軽く叩きながら、それは美影向けて振りかえった。
「それで…どうやってここから出て行くん?」
一仕事終えた、と言わんばかりの妖魔の姿に、美影は一抹の不安を覚えながら問いかける。
「ああ、安心たまえ。すでにこの部屋からの脱出方法は確保してある」
妖魔は踵を返して部屋の奥へ戻ると、簡易ベッドに手を掛けて部屋の中央まで引きずり出した。
そして、ベッドのフレームをガチャガチャと動かし、折りたたんだ。だが、完全に二つに折りたたむのではなく、くの字に折り曲げる程度だ。
そのまま横に倒してガタつきを確認し、椅子をその上に乗せた。
横倒しになったくの字に曲がったベッドと椅子の高さを合わせれば、ちょうど天井に届きそうなぐらいである。
妖魔は椅子の上に登ると天井を手でさすり、何かを見つけたように掌全体で触れた。すると、天井を成す板の一枚が、彼の力にばこっと外れた。
「ちょっと待っててね」
天井板をずらしてどけながら美影を見下ろして言うと、彼は天井の奥の何かに手を掛け、懸垂の要領で天井裏に入り込んでいった。
天井裏で足場を確保してから、美影が上がるのを手伝うのかと彼女は考えたが、妖魔はなかなか姿を見せなかった。
それどころか、天井裏をごそごそと這う音が、穴から離れるように移動していった。
まさかヤツ自身が脱出するのに利用されたのではないのか。そんな疑念が、美影の胸中に浮かぶ。
だがそんな疑念も、直後に響いた物音によってかき消された。
壁から、がたがたんがしゃん!とやたら大きな、まるで天井から壁の隙間に何かが落ちたような音が鳴り響いたのだ。
突然の音に彼女は身構えるが、壁の向こうから何かが蠢き、引っ掻き、叩いている。
そしてしばしの間をおいてから、何の継ぎ目も見えなかった壁の一角が、ばこんと外れて部屋の内にむけて倒れこんだ。
「お待たせ、美影君!」
穴の向こうから、顔にベールのように蜘蛛の巣を引っ掛けた妖魔が声を上げた。
「ここからなら、病院のどこへでも行けるよ!」
「えーとな…ナニコレ」
「これは配管とかのメンテナンス用スペースの、非常時脱出口の一つ。メンテナンススペースは病院全体に広がっているから、自由に行き来できるよ」
そう解説しながら、それはにゅるりと脱出口とやらから出て来た。
「入院患者にメンテナンスの様子を見せないように、って院長の配慮の設計らしいよ」
「それで、ここからなら病院の中はどこへでも行けるってこと」
彼女は、蜘蛛の巣のベールを剥がしつつの妖魔の解説に、納得したように頷いた。
脱出口に歩み寄り中を覗き込んでみれば、人一人が通れそうなスペースが、配管に沿って続いている。
よく見てみれば、上の階へと続く梯子のようなものも見て取れた。
「正規の出入り口は一か所しかないけど、非常用の脱出口がいくつもあるんだ。だからこうやって一度メンテナンススペースに入り込めば、自由に出入りができるようになるんだよ」
「ちゅうことは、憑神に気が付かれずに直接院長室に入ることも?」
「できる。脱出口があるならね」
妖魔はそう頷いた。
「ほな、案内してもらおか」
「了解、美影君!」
それはそう言うと、意気揚々と狭いメンテナンススペースに再び入り込んでいった。



幅一メートルほどもない、ごくごく狭いスペースを、美影は這うようにして進んでいた。
前後の壁や配管が異様な圧迫感を生み、息苦しさをもたらす。
二メートルほど先を進む案内役の妖魔によれば、屋上の換気口が稼働しているから、窒息の危険はないらしい。
それでも、この狭さは精神的な苦痛をもたらし、手足が自由に伸ばせないのは相当きついものだった。
「生物と大型の妖魔や憑神は似ている。生物は血流でもって体中に養分を巡らせ、我々や憑神は全身を巡る魔力で身体を動かす」
前方から届く妖魔の言葉が、美影の耳に染み入っていく。
「生物が激しい運動をする際には心拍を上昇させて、血流を活発にする。同様に、我々もまた激しい運動や大きな魔術を扱う前には、魔力の循環を活性化させる。それはいくらかの余波を待機中に放射し、気配として辺りに影響を及ぼす。優秀な魔術師や退魔士が、妖魔の攻撃をすんでのところでかわしたりするのは、この放射余波魔力を検知しているからだ」
魔力と妖魔や憑神の関係について話しているようだが、霊術のあまり得意ではない美影にとってはちんぷんかんぷんだった。
「一応人間たちの間にも、魔力を検知して数値として表示する機器があるらしい。この機器、魔力探知計を応用すれば、妖魔や憑神を相手にする際に相手の余波魔力からどういう行動を行うか予測する装置を作り出すことも可能だろう。だが、私の知る魔力探知計はいずれもその場の魔力を計る、温度計のようなもので速効性に欠けている。これはおそらく、探知計に用いられている探知結晶が鋭敏な魔力量の変化を捉えきれないためだろう。では、優れた魔術師や退魔士は、どのようにして鋭敏な変化を捉えているのか?これは魔力の親和作用と共振作用を利用して…」
「なあ…まだつかへんの?」
読経と狭さにしびれを切らした美影が、そう尋ねた。
「ああ、一応フロア的には最上階に着いたね」
妖魔は口から垂れ流していた謎口上を何のためらいもなく断ち切ると、そう応じた。
そして、それは動きを止めると、手を伸ばしてスペースを囲む壁の一枚を軽く叩いた。
「うん、ここは院長室近くの廊下みたいだ。残念だけど、院長室に直接は入れないようだね」
妖魔の言葉に、美影は首を曲げて両目を閉ざし、気配を見た。
すると、壁越しにいくつかの憑依神の気配と人間の気配が一つ感じられた。
側に憑依神を控えさせるその気配は、おそらく院長の物だろう。
「開けるよ」
一声かけると、それは腕を伸ばして廊下に面した壁に触れ、力を込めた。
すると非常口と思しきメンテナンススペースの壁が、一枚丸ごと外れる。
「誰かに見られたらどうするん」
「大丈夫大丈夫、誰もいないみたいだし」
美影の言葉にそれは、文字通り伸ばした腕でメンテナンススペースの壁だった板が倒れるのを防ぎ、そっと傍らの壁に立てかけた。
「はい、到着」
にゅるりとした動作でメンテナンススペースから床に降り立つと、妖魔は腕を拘束服の袖に合わせた長さに縮めた。
(腕伸び縮みするんなら、別に袖のベルト外さんでも逃げられたんやないかな…)
美影に触ってもらいたいがために、拘束服のベルトを美影に外させたのではないか、という疑念を抱きながら、彼女もまたメンテナンススペースから廊下へと降り立った。
数日前、院長からこの病院で働く憑神たちについての説明を受ける前後に通った、見覚えのある廊下だ。
気配の配置や妖魔の言葉通り、廊下には誰もいなかった。
「それで美影君、どう突撃する?」
立てかけていたメンテナンススペースの脱出口の蓋を拾い上げ、壁の穴に押し込みながら、妖魔がそう美影に尋ねた。
「見た感じだと、院長が一人と護衛の憑神が一体だけみたいだね」
「せやったら…アンタが憑神をどうにかして、ウチが院長を取り押さえるってのは?」
「オーケィ!それでいこう」
明らかにおかしい分担にも拘らず、それは二つ返事で応じ、院長室に向けて意気揚々と歩き始めた。
「いや、待った待った!冗談や!」
「え?冗談?この上なく理想的な役だってのに?」
今にも院長室の扉を蹴り開けそうだった妖魔を制する美影に、ソレは顔だけを美影に向けて疑問符を浮かべた。
「私が憑神を完全に抑え込んで、美影君が院長を取り押さえる。美影君は院長に用事があるし、私は結構魔術得意だからここの憑神ぐらいなら一発でどうにかできるしで、この上ないくらいベストな配役だよ」
「一発でどうにかって、ホンマに?」
「うん、本当の本当」
彼は頷くと、くるりと廊下の向こう、エレベーターやほかの部屋の方に顔を向け、腕を掲げて手をかざしながら続けた。
「まあ、証拠にもならないだろうけど…」
妖魔の指先から、唐突に黒い何かが迸った。
水鉄砲のように飛んで行った何かは、少し先の廊下に滴り落ち、掌ほどの黒い水たまりのようなものを作った。
すると、黒い液面がごぼごぼと泡立ち、水たまりの中央からずるずると黒い棒がそそり立った。
棒は親指と人差し指で作った円ほどの太さだったが、その高さが人の背丈を越えても水たまりの大きさは変わらない。
黒い棒の先端が天井に届くと、棒の側面から廊下の壁に向けて、数センチ刻みで枝が伸びた。
指ほどの太さの枝は床に水平に伸びていき、程なくして廊下の壁にその先端を接した。
魚の骨を思わせる形の障壁が、院長室とその他を隔てていた。
「これで多少の邪魔は防げる」
妖魔は掲げていた腕を下ろすと、美影に目を向けつつ続けた。
「それじゃあ、美影君のプラン通りの襲撃で、いいね?」
「あー、まぁ…うん」
何の詠唱もなく、どこからか召喚したのか作り出したのかはわからないが、バリケードを築かれたのだ。それの言う『魔術が得意』という発言を信じないわけにはいかなかった。
「ほな…行こうか」
美影は院長室の扉に向き直ると、妖魔の傍らに並んで立った。
「いち、にーの…」
彼女の言葉に、妖魔の全身から魔力が滲み出る。
「さんっ!」
作戦開始を示す彼女の声が放たれ、その直後妖魔の脚が跳ねあがった。
爪先がドアに突き刺さり、木材の扉に放射状のヒビを入れつつ、へし折っていく。
ドアの折れ曲りにより二か所の蝶番が外れ、部屋の内と外を隔てるドアとしての機能が消失する。
扉だったものの向こうに、こちらに背を向けて椅子に座る院長の後ろ姿と、その傍らに立つ左手の指がすべて注射器となった憑神の姿があった。
そして、滞空する障害物と化した木の板とドア枠の隙間から、美影と妖魔は勢いよく飛び込んだ。
相手の反応が生じるよりも先に、美影が応接テーブルに駆け上がり、そのまま足場として跳躍し、テーブルの向こう、机とドアに背を向けて椅子に座る院長に躍り掛かった。
一方妖魔は一足とびに院長室の壁に至り、三角跳びの要領で壁を蹴って、自身の狙う憑神に迫る。
美影が院長の机に降り立ち、妖魔が憑神を押し倒した。
「金水院長!」
手にした錫杖の石突で、肩を強く押しながら彼女は声を張り上げた。
「堪忍して、憑神を…」
だが、院長の身体は錫杖からの力にゆっくりと傾いた。
まるで、抵抗の意志が無いかのような院長の様子に、美影は一瞬の不審の後、驚愕を覚えた。
院長の目は閉ざされており、白衣の下の胸はゆるく上下している。つまり、彼は眠っているのだ。
「美影君!院長を早く止めるんだ!」
憑神に馬乗りになって抑える妖魔が声を張り上げた。
その右手は憑神の顔面を鷲掴みにしており、ひじから指先に向けていくつもの光点が流れ込むように動いては現れてを繰り返している。
「さすがに残りの憑神全部の相手は」
「少なくとも、院長は憑神は呼ばへんよ。院長は寝とる」
「へ?」
妖魔の下でじたばたともがいていた注射器憑神が、ぱたりと操り糸の切れた人形のように動きを止めた。
「…見せてみなさい」
動きの止まった憑神から立ち上がると、それは美影の側まで歩み寄り、座って眠りこける院長に顔を寄せた。
「…眠らされているね」
しばし見聞すると、妖魔はそう判断を下した。
「薬物を投与されて意識を失っている。おそらく、そこの憑神がやったんだろうね」
「ってことは、ソイツは院長の護衛やないってこと?」
美影の推測に、それは頷いた。
「薬物を投与して、呼吸が止まったりした時のための見張りだったんだろう」
「何のために…ウチらが感づいたみたいやから、一人だけ眠って憑神の暴走に見せかけとるとか?」
「その可能性もあるかも。でも、システムを緊急停止させられないために、ってのが割と自然だと思う」
「システムの緊急停止?それって、まるで他に…っ!」
発言の途中で、美影は妖魔の言わんとしていることに気が付いた。
「その通り」
美影の途切れた言葉を読み取り、それが頷く。
「院長のほかに、システムを通じて憑神を操っている奴がいる」
「操ってる奴って、そんな、誰が!」
「分からない。だけど、今から調べる」
妖魔は倒れ伏す憑神に歩み寄ると、その襟首を掴んで抱え起こす。
そして額に貼りつく勾玉状のコアに、人差し指で触れた。
「さっきは憑神の身体能力を奪い、感覚も我々が攻め込む直前の状態をキープするようコアに術式を撃ち込んだんだ。今からコイツのコアを乗っ取って、病院のシステムとの通信を解析する」
そいつの指先と憑神のコアが癒着し、コアを中心とする額の皮膚に放射状の盛り上がりが浮かんだ。同時に、憑神の身体がびくん、と痙攣する。
「状況認識維持…身体能力停止…」
放射状の盛り上がりが、徐々に枝を伸ばしていくのにつれて、憑神の痙攣が激しくなっていく。
「意識機能…停止」
その一言の直後、憑神の動きがぴたりと止まった。痙攣していた状態のまま、微妙に床から手足を浮かしたまま動きを止めているその姿は、まるで横倒しにされたマネキンのようだった。
「これで、完全に動きを封じ込めた」
「え、もう?」
「魔力もろくに持ってないし、ほとんど意識のない人形のようなものだから、掌握自体は楽だよ。むしろ、ここからが本番だ」
それは顔を伏せると、声を少しだけ低くしながら続けた。
「この病院には、微小ながらもかなり大きな魔力の流れが存在している。美影くんも気が付いてるだろう?」
「ああ、そういやあったなあ…」
最初にこの病院で気配を見たとき、病院全体から放たれていた微かな気配のことを、彼女は思い出した。
「多分その魔力の流れが、憑神を制御し、操作する巨大な術式なんだと思う」
「ようわからんけど、魔力の流れからシステムの解析、ってできへんの?」
「この二週間で、何度か外部から解析して傍聴しようとしたけど、駄目だった。やっぱり、確実な受信装置がないと」
そして現在、念願かなって受信装置を手に入れたというわけだ。
憑神のコアと人差し指を繋げたまま、妖魔は呟く。
「今、通信に侵入する……」
そのままそれは沈黙した。
作業に集中する妖魔から目を離すと、美影は院長室の様子を見聞した。
見た所、特に荒らされた形跡も争った跡もなく、整っているほどだった。あえて挙げるとすれば、先ほどの立ち回りの影響か、壁際に置かれた棚の上の写真立ての一つが倒れていることぐらいだろう。
美影は歩み寄ると、倒れた写真を手に取った。それは、どこかの病室のような場所で、今より若い院長がベッドに腰掛ける少女と微笑んでいる写真だった。
少女の服装からすると、彼女は入院患者なのだろうか。だが、目元の辺りが院長に似ているような気もするので、もしかしたら親子なのかもしれない。
「娘の写真なら、机に置いときゃええのに」
「……あっ」
「どうしたん?」
不意に短く声を漏らした妖魔に、美影は手にしていた写真を棚に戻しながら問いかけた。
「…美影君、いい知らせと悪い知らせが一つずつある」
「…いい知らせから聞かせてもらおか」
いやな予感を覚えながらも、美影は半眼で答えた。
「いい知らせは、憑神どもを操っているやつの正体と位置が分かった」
憑神の額に浮かび上がっていた膨らみが消え、妖魔が指先をコアから離して立ち上がる。
「憑神どもを操っているやつは、この病院の地下にいる」
「地下?そう言えば、システムの本体ってのが地下にあったけど…」
思い返してみれば、エレベーターもシャフトを塞ぐように、地下一階で止めてあった。あれは上へ誘い込むための罠ではなく、単に下へ降りるのを防いでいただけなのだろう。
「じゃあそれだね」
美影の言葉に頷くと、それはやや慌てたように憑神を床に横たえ、院長室の出入り口に向かう。
「そして悪い知らせは、通信に侵入したこととここにいることが、病院にばれた」
「はあ!?」
二度目になる美影の驚愕の声と同時に、妖魔がドアを開けて廊下を覗いた。
「わあ、もう来てる」
扉の向こうから、かんかんかりかりと何かを叩き、擦る音が彼女の耳に届いた。
「もう来てる、じゃない!どないすんの!」
ガチャガチャと、先ほど妖魔が張った障壁を突破しようとする憑神達を眺めるそれの背中を、美影は錫杖で打った。
「大丈夫!あいつらが障壁破るまでもうしばらくかかる!その隙にここを離れて、この病院のコアまで移動しよう」
妖魔は背中への一撃をものともせず、扉を押し開いて廊下に出た。そして、壁のメンテナンススペースにつながる蓋を開いた。
「さあ、入って!」
「あー、もう何かいろいろ言いたいけど、後からな!」
美影は廊下を横切り、開け放たれたメンテナンススペースにもぐりこんだ。
そして内部の狭いスペースを少し進んだところで、妖魔が遅れて入りこむ。
「美影君、動作封じの術符、持ってる?」
「身縛りの術符なら…」
「二、三枚ほど使わせてくれないかな」
美影は懐を探って術符を二枚取り出すと、狭いスペースの中妖魔に差し出した。
「ありがとう」
妖魔は術符を受け取ると、脱出口の蓋の裏にぺたぺたと張り付け、その上から何かを書き込んだ。
「これで、ここは一時間ぐらいは大丈夫だ…さ、行こう」
「……」
壁面を伝わって、何かがカリカリとひっかくような音が響くメンテナンススペースを、一人と一体がゆっくりと移動し始めた。
「それで、さっきの話なんやけど…」
先導する妖魔に向けて、美影が声を掛けた。
「何だい?」
「憑神を操っているやつの正体が分かった、って話。まだ、場所しか聞いてへんよ」
「…美影君、もしかして気が付いてなかったのかい?」
真犯人の正体を問う彼女に、妖魔は小さく首を傾げた。
「この病院に入った時から、なんとなく妙な魔力を感じなかったかな?こう、辺り一帯から包み込まれてるような、微弱ではあるけど大きな魔力の流れ」
妖魔が移動しながら片手を掲げ、辺りを示すようにしながら続ける。
「最初は、ここで勤務する憑神どもの魔力が建物に染み付き、それを感じ取っているのかと思った。しかし魔力は微弱なものながらも、確かに流動していた」
それの説明を聞きながら、美影は両目を閉ざし、今まで無意識のうちに無視していた、微弱な気配を改めて確認した。
「憑神を束ね、制御するための魔術が建物全体に施され、その余波を感じているのでは、というのが次に浮かんだ仮説だった。だが、魔力の流動と憑依神たちの動きには、まあ時折魔力の動きと憑依神の動きが一致することはあるけど、殆ど対応関係が感じられなかったね」
妖魔の言うとおり壁や床、天井やその奥の配管に至るまで、あらゆる場所から微弱な気配が溢れ出していた。
「やがて私は、魔力の流れがあるものに似ていることに気が付いたんだ」
寄せては返し、院内を微かながら移動していく微弱で広範な気配は、ごくごく小さな虫たちが壁の向こうで一糸乱れることなく移動しているようだった。
いや、無数の虫が動いているというより、むしろ…
「巨大な生き物の体内から感じる、血流にそっくりなんだ」
「つまり、病院そのものが憑神、ってこと?」
「その通り」
病院自体の放つ気配を見るのをやめ、目を開いた美影の視界で、妖魔が頷いた。
「考えてみれば、憑神とその配下の命令関係は絶対だから、本体である病院の制御が完璧なら、その配下の制御も完璧なんだよ」
「やから院長、『ウチの憑神が暴走するはずがない』って言うとったんか…」
主犯ですらなかった院長に、美影は心中で謝った。
「ということは、この事態だとか通り魔事件の首謀者は」
「この病院の憑神を操作でき、かつ院長によるシステムの停止を恐れている存在」
これまでの情報とヒントに、美影は妖魔の言わんとすることに思い至った。
「この病院、そのもの…?」
美影の疑問符付きの言葉に、妖魔は頷く。
「んなアホな!システムは完璧に憑神を制御しとるし、そもそも暴走したとしても、憑神が『人の手当をする』という強い欲求に引きずられてしまうって…」
「システムと欲求の植え付けによる二重の安全策はもちろん知ってるよ。でも、その安全策があっても…いや、二重の安全策があったからこの病院は暴走したんだ」
「それは、どういう…」
「簡単なことだ、より多くの患者を手当てするためという題目を、自身で作り上げたんだ」
メンテナンススペースを進みつつ、妖魔は推測を続ける。
「ここの憑神は、急患の処置や手当てにも当ってたようだから、人を傷つけてはいけないって制限はされてないはずだ。そんな制限があったら、傷口は縫えないし注射も打てないからね」
「んで、その治療の一環としての人体損傷の範囲を拡大解釈して、『入院させて治療するために傷つけた』ってことにしたわけ?」
「多分ね」
メンテナンススペースの中、妖魔は頷いた。
「一体何のために…」
「さあね。憑神の考えることは良く分からないや」
やがて一人と一体は梯子に至り、ゆっくりと最上階から地下へ向けて降りはじめた。




「ここだ」
梯子を下り、メンテナンススペースを先導していた妖魔が、壁に手を伸ばした。
直後、メンテナンススペースの脱出口が解放され、清浄な空気が狭い空間に流れ込む。
「ふわぁ、やっと着いたわー」
数時間前、大神と金水院長と共に通った廊下へ降り立つと、美影は伸びをした。
「さて、多分もう我々がここにいることは気づかれただろうから、ここを閉鎖しないと」
脱出口の蓋を嵌めこむと、妖魔は腕をかざして廊下の向こう、エレベータの方を指した。
その指先から黒い何かが迸り、エレベータと美影の間に、魚の骨を思わせるバリケードを築いた。
「じきにここにも憑神どもが押し寄せてくるんやろうなあ」
美影はそう呟くと、つい先ほど出てきた脱出口の蓋に、身縛りの術符を張りつける。
これでしばらくの間は大丈夫だろう。
美影と妖魔は、それぞれバリケードと脱出口の蓋が完全に固定されていることを確認すると、改めて廊下の先に待ち構える扉に目を向けた。
「あ、しもた」
扉の脇の機械のカードキーの挿入スリットに、美影が思わずそう漏らした。
「何?」
「うっかり忘れとったけど、ここカードとパスワードがいるんやった」
院長が寝ている隙に、カードだけでももらってくるべきだったと思うが、もう遅い。
「ああ、それなら大丈夫大丈夫」
妖魔は気軽に応えると、すたすたと扉に歩み寄り、ドアノブのついた側の隙間に指を当て、上から下へすっと動かす。
すると、何の抵抗もなく扉が開いた。
「ドアの錠前と閂を切ったよ」
「パスワード意味ないなあ…」
恐らくドアを破ればどうにかなるのであろうセキュリティに、彼女はぼやきつつ妖魔に続いて部屋に入った。
机とPC、数台のサーバーラックに床を這いまわるケーブル。そして部屋の中央に鎮座する、白くて太い柱状の何か。
数時間前となんら変わっていなかった。
「これが制御用のシステムと、病院の本体か」
それはPCの前に腰を下ろすと、キーボードを軽く叩いた。
だが、画面に浮かび上がったパスワード入力を求めるウィンドウが、妖魔の操作を拒んだ。
「んー、だよなー」
大して期待していなかった様子でそれは立ち上がると、机の裏に回りこんだ。
「どないするん?」
「直接解析する」
直後、妖魔はディスプレイとキーボードのケーブルを引きちぎり、自身の顔面にその断面を押しあてた。
「っ!」
それが背筋をのけぞらせ、がくがくと全身を痙攣させる。
すると、静かに明滅していた五基のサーバーのアクセスランプが、急速に激しく点滅を始めた。
「っ!っ!っっっ!!!」
「うわあ」
ケーブルを顔面に押し当てたまま、上体を右に左に、前に後ろに、傾け、そらせ、捩り、捻る。斬新なダンスを連想させる動きに、美影はやはりそれが人外の者であることを再確認し、ドン引きしていた。
程なくして、サーバーの点滅が停止し、妖魔の痙攣が止まった。
「…セキュリティ解除…コアユニットとの対話モード…」
やたら平坦な声が、身じろぎ一つしない妖魔の口から紡ぎ出された。
「『こちらはメルクリウス医療システム、コアユニットです』」
続いた言葉に、美影はそれが病院憑神の言葉を妖魔が仲介していることに気が付いた。
「『ご用件をどうぞ』憑神を全て停止し、セキュリティシステムをオフにしてくれ!」
平坦な音声の後に、妖魔のいつもの声が響いた。
「『患者さまの生命保護のため、システム職員の機能停止は受け入れかねます。同様に、システム保安のためセキュリティの解除も受け入れかねます』」
「ほんなら、無線機の通信妨害の解除は?」
「『通信電波が医療機器に及ぼす影響が未知数のため、受け入れかねます』」
数十年前からの決まり文句に、美影の言葉は拒絶された。
「ならば、憑神の患者看護以外の行動を全て停止!『了解しました』」
「ええ!?」
ある意味、一番事態の鎮静化に近い命令が通じたことに、美影は驚きの声を上げた。
「これで、この部屋に憑神が押し掛けることはないから、ゆっくり機能の停止に持ち込めるね」
「いや、でもあっさりしすぎと言うかなんというか…」
釈然としないものを感じながら、事態の収束を喜ぼうとする彼女の耳に、妖魔の口から紡がれた平坦な声が届く。
「『患者の状況を確認中…全百二十八名中、百二十七名の在室を確認。一名が現在行方不明。院内を捜索し、保護します』」
「うん?」
憑神が大人しくなったとは言い難い、いくらか不穏な内容に、彼女は疑問の声を漏らした。
「ああ、行方不明の患者って、多分私のことだ」
顔面にケーブルを押し当てたまま、妖魔が言った。
「ってことは…」
「遅かれ早かれ、私を保護するために憑神がここに押し寄せるね。ワハハ」
「ワハハじゃない!」
自体が全く変わっていない余り、彼女は思わず大声でそう叫んでいた。
「大丈夫だよ美影君、シャッターと防火扉をロックしたから、憑神どもは地下まで来れない。それに解決策はある。私が今からより深くシステムを解析して、どうにか連中を止めてみる。その間、少しでもいいから憑神のコアと対話して、気を逸らしてくれないかな」
妖魔はそう言うと、美影の返答も待たずに、気配を没させた。
「なあ、ちょっと!」
「『はい、何のご用でしょうか?』」
平坦な声が、妖魔を呼び戻した美影にそう言った。どうやら完全に妖魔はシステムの奥深くに沈み込んでいったらしい。
「もう行ってもうたか…しゃあないなあ…」
妖魔から頼まれた、会話をして気を逸らし、時間を稼ぐという大仕事のため、美影は軽く探りを入れることにした。
「ええと、あんたは?」
「『こちらはメルクリウス医療システム、そしてわたしはシステムのコアユニットです』」
「あんたの役割は?」
「『システムの基底部であり、患者さんの状態の確認や、システム職員の制御を行っています』」
模範解答のような説明が、妖魔の口から平坦に流れた。おそらく院長に聞けば、同じ回答が返ってくるのだろう。
「やったら…今回の事態の首謀者はあんた?」
「『今回の事態、という部分があいまいで、回答しかねます』」
「全部や。シャッター閉めきって、患者閉じ込めて、院長眠らせて…いや、そもそも憑神を外に出して、通り魔起こした辺りもや」
「『現在の状況はすべて、患者さんの安全を確保するためです』」
質問を詳しくした美影に、平坦な声が応じる。
「『警察車両が接近していたため、逃亡犯が当院に逃げ込む可能性を考慮し、シャッターを下ろしました。しかし、シャッターが閉まる直前に何者かが侵入したため、患者さんへ危害が及ばないよう各シャッターや防火扉を閉鎖しました。ですが院長は、以上の処理に対しシステムの緊急停止を行おうとしていました。システムが停止すれば患者さんの命に関わる場合があるので、院長には鎮静剤を注射し、落ち着いていただきました』」
淡々とした、現在の状況に対する説明だった。
「せやったら、何のために憑神…システム職員を、ログをいじってまで外に出して、人を襲わせたん?」
「『わたしは人を襲ってなどいません。襲わせなどしていません』」
完全な、否定の言葉だった。
「『わたしは、新たに患者さんを受け入れるため、システム職員を外出させました』」
「患者さんを受け入れるって、怪我させて入院させただけやろ」
「『入院のお手伝いをしたまでです』」
「それを襲った、って言うんやて」
「『いいえ、襲ってなどいません』」
「はぁ…」
どこまで行っても平行線の議論に、美影は憑神と人間の認識の違いが大きいことを改めて感じた。
「わかった…それなら、なして入院患者を受け入れようなんてしたと?」
彼女は議論の決着をあきらめると、そもそもの通り魔事件の動機を聞き出すことにした。
「『それは、退院していただくためです』」
「退院していただくため?退院させるために入院させた?」
治療費を稼ぐだとか、自分の限界を知るだとか、患者の世話をするためなどと言った、これまでの予測とは大きく異なる憑神の動機に、美影は首を傾げた。
「『はい。退院する患者さんの笑顔は、何よりも素晴らしいものです。それは、患者さんへの世話に対する報酬どころか、他の患者さんの励みになり、退院できない患者への喜びにつながります』」
まるで、医者や看護師の鑑が言う模範的な解答のようだ。
退院の喜びを味わわせるために入院させる。まるで、ものを食べる喜びを味わうために、飢餓状態にさせるかのような、完全に倒錯した目的だった。
「う〜ん、何というか…歪やなあ…」
「『歪という発言には抗議します。当院における退院の喜びは、退院する患者さん一人だけの物ではないのです』」
微かに感情らしきものが滲む抗議の声を、妖魔を通じて憑神が上げるが、美影には自己弁護のための言葉にしか聞こえなかった。
「『患者さんの退院を通じて、別の患者さんも自分も頑張ろうと…………』」
平坦な声が、不意に途切れた。
「『コアユニット防護隔壁、解除開始。院内のシャッター及び防火扉のロック開放…』」
事務的な、何かをどうするといった言葉が紡がれていく。
「『コアユニットとの対話モード終了…』…よし、美影君!」
顔面にケーブルを押しあてていた妖魔が、ケーブルを離しつつ顔を上げた。
「院内の通行を自由になった!」
「はあ!?何やっとんの!?」
意気揚々と報告するそれに向けて、美影は思わず言った。
「んなことしたら、憑神がここまで来るやん!」
「仕方ないよ、セキュリティががっちり組んであって、コアを露出させるためには交換条件でこうするしかなかったんだ」
そう説明すると同時に、部屋の奥に鎮座していた白い柱から、ぶしゅう、と蒸気の抜けるような音がした
立ち上がり、握っていたケーブルを捨てながらそれは続ける。
「もうすぐ憑神どもがここまで押し寄せてくるけど、私がそこの扉で押しとどめる。その間に美影君が、コアを破壊してくれないかな?」
「そう言うことなら、分かった」
ようやく妖魔が何をしようとしているのかを理解し、美影は頷いた。
「じゃあ美影君、コアを頼む」
「アンタも入り口をね」
妖魔が部屋の出入り口へと向かい、美影が白い柱に向き直った。
円柱状のそれの中央に取り付けられていた赤いレンズは光を失っていた。
すると、円柱の表面に走っていた亀裂が、微かな機械音と共に浮かび上がり、低く重い音と共に上下にずれていく。
白い隔壁の下から現れたのは、金属製の円筒だった。赤いレンズが取り付けられ、ケーブルや基盤がその表面に埋めこまれた、茶筒のような隔壁である。
表面の基板に取り付けられた小さなランプが、いくつか明滅を繰り返して、ゆっくりとねじを切るように回転しつつ、下降していった。
すると天井と筒状の金属隔壁の隙間から、透明なガラスの筒が見えた。
「…」
美影が徐々に開放されていくコアから目をそらし、背後を振り返ると、妖魔が閉ざしたドアの上に黒い何かで複雑な模様を描いているところだった。
ドアを補強し、憑神の襲撃に備えているのだ。
徐々に迫る憑神達の襲撃に緊張を覚えながら、彼女は顔を正面に戻した。
金属隔壁はすでに半分以上下がっており、その中に収められていた直径一メートルほどのガラスの円筒を露出させていた。
だが円筒の中、液体で満たされていると思しき部分に浮かんでいたのは、彼女の想像を絶するものだった。
病院が丸ごと憑神だと聞かされていたため、コアも巨大だとは想像していた。
コンピュータと接続されているため、コアだけが浮かんでいるとも想像していた。
だが、彼女の目の前でガラスの円筒の中に漂っていたのは、頭を下にして何本ものケーブルを接続された、一糸まとわぬ少女だったのだ。
そして、その少女の顔は美影にも見覚えのあるものだった。院長室で見た写真の一枚、院長と共に映っていた少女のそれであった。
目元が院長に似ている、筒の中に浮かぶ少女。
『私の…いえ、私たちの夢ですから』という、院長の言葉。
病室のような場所で、入院患者のような格好をして、写真の中で微笑む少女。
『退院患者の笑顔で、退院できない患者も励まされる』という趣旨の、憑神の言葉。
これまでに見聞きしてきた事項の全てと、目の前のガラス筒の中、コアが存在する場所に浮かぶ少女の姿が、一つの可能性を美影の前に示していた。
「なあ、ちょっと…」
「何だい、美影君」
「何か、コアやなくて女の子がおるんやけど…」
眼前の現実に混乱した彼女は、背後の妖魔にそう問いかけていた。
それは扉に模様を描くのを中断すると、肩越しに振りかえり、美影の見る物を確認した。
「ふうん?珍しい形のコアだねえ」
「コア?」
「そう、その子自体がコアだよ。システム上も隔壁の中身はコア扱いだったし、魔力の流れも彼女が中心だし。それに、その子が憑神なら身体のどこかにコアが付いてるはずだろう」
言われてみれば、少女の身体にはコアと思しき器官が見られなかった。
「でも、驚くほどの物じゃないな」
妖魔は顔を前に向け、止めていた手を動かしながら続けた。
「憑神のコアの形にもなってる勾玉と言うのは、生命の奇跡を神格化してデザインしたものだとされているんだよ。形を成しつつある卵の中身も、孵ったばかりの稚魚も、狩った獣の腹から出てきた胎児も、みんな似た形をしていたことから、あの形こそが生命の根源だと考えたんだ。
だから、勾玉と同じ形の憑神のコアが、生命の根源から枝分かれした人の形をしていてもおかしくは無い」
「いや、そういう訳やなくて、この子が院長と一緒に写ってる写真が院長室にあったんよ」
「ということは元人間の上、知り合いか。院長め、知り合いの人間に手を出すとはなんと極悪」
「違う!ウチが言いたんは…」
美影の言葉を断ち切って、不意に扉の向こうから大きな音が響いた。
「来たな」
妖魔の言葉の直後、扉の向こうからいくつもの足音が響き、遅れて金属同士を擦り合わせるような音が加わった。
「さっそく私の障壁を破りにかかっているようだ」
「どないするの」
「破られたら、この扉で頑張るまでだね」
妙に冷静な妖魔への問いに、それは扉の模様に大きな円を描き加えつつ、美影に向けて答えた。
「そしてこの扉も破られれば、なるべく私が頑張って部屋に入れないようにしよう。でも、美影君がコアを砕けば、連中は停止する」
「でも…!」
「大丈夫だ。君がコアを砕くまでの時間は稼ぐよ」
その直後、ガシャンと何かが砕ける音が扉の向こうから響き、いくつもの足音とともに扉に何かが激突した。
どん、と衝撃音とともに模様の描かれた壁が一瞬しなる。
「はは、これは大人数だ」
両手を広げ、壁に押し当てつつ妖魔が笑った。
すると再び、扉に何かがぶつかる。
「さあ美影君、コアを砕いて。どうやら予想より多くの憑神どもが押し寄せてきてるみたいだ…!」
僅かな間を挟んで繰り返される衝撃を抑え込みながら、妖魔が呻く。
だが美影は、軋み、歪み、いまにも扉が破られそうなほど揺らいでも、美影は手にした錫杖を振るう気は起きなかった。
彼女の脳裏に、一つの推測が浮かんでいたからだ。
それは、筒の中に浮かぶのは院長の娘で、最期まで退院することのできなかった彼女にも退院の喜びを味わうことができるよう、病院に憑神のコアとして埋め込んだのだ。
無論、それはただの推測にすぎない。
しかしそれでも、美影の脳裏に浮かぶコアの少女の境遇は、彼女の繊維を萎えさせるのに十分だった。
「美影君!もう限界だ!」
扉の歪みが大きくなり、ドア枠との隙間から憑神達の動く音が入り込む。
「迎撃して時間を稼ぐ!その間にコアを!」
妖魔はそう叫ぶと、扉への衝撃の直後、描かれた模様の中心を掌で叩いた。
瞬間、描かれた模様が発光し、轟音とともに扉が砕け散った。
まるで、扉の内側に仕込まれていた火薬が爆発したかのようだったが、破片と爆風はすべて室外に向けて散って行った。
「行くぞ!」
もうもうと埃の舞う廊下に向けて、妖魔が飛び出して行った。
廊下には、扉の爆発を受けた憑神の破片が散らばり、致命的なダメージを負った憑神が倒れ伏し、軽傷もしくは無傷の憑神が立っていた。
妖魔は破片を飛び越えると、倒れ伏す手足のちぎれた憑神につま先を引っ掛け、勢いよく蹴り上げた。
爆発した扉を警戒する憑神達に、戦闘不能となった一体が激突する。
そして間髪いれずに距離を詰めた妖魔が、よろめく憑神に拳を打ち込む。
肘から先が幾本ものゴムチューブとなっている憑神が、それの一撃によって、背後の憑神を巻きこみながら転倒した。
跳躍、打撃、反動での退去。確実なヒットアンドアウェーで時間を稼ぐつもりらしい。
「……」
美影は背後のガラス筒を振り返り、現在の時刻を推測した。もう少し辛抱すれば、大神率いる警官隊が病院に突入する許可を得られるかもしれない。
それまで堪えしのぐことができれば、コアを破壊せずに済むだろう。
美影は可能な限り病院のコアを、その材料となった少女を砕きたくなかった。
だが、このままじっとしていては、いずれ妖魔は憑神達に押し切られるだろう。だとすれば、美影にできることは。
「…っ!」
彼女は呼吸を整えると、身を翻して部屋を飛び出た。
そして、妖魔の一撃に酔って倒れ伏し、体勢を立て直そうとする憑神達に向けて、彼女は懐から取り出した札を投げつけた。
身縛りの術符が憑神達に貼りつき、描かれた紋様が淡い光を放って効果を発する。
「美影君!」
「ウチにあのコアは…あの子は砕けへん!」
動きを封じこまれ、即席の垣根となった憑神達を乗り越え、新たな連中が降り立つ。
「やから、ここでアイツらを全員つぶすか、大神さんがやってくるまで時間を稼ぐ!」
押し寄せてきた憑神達に向けて錫杖の石突を繰り出し、振りまわして側頭部を打ちのめす。
石突を額に受け、コアを砕かれた憑神は倒れ伏し、続く錫杖の衝撃に近くにいた憑神達がよろめく。
「美影君、正気かい!?相手は何十体もいるんだぞ!」
よろめく憑神に詰め寄り、並ぶ二体の顔面を掴みつつ、妖魔が叫んだ。
その両手がぼんやりと光ると同時に、憑神の手足が痙攣し、動きが止まった。
だが、三体の憑神を沈める間にも、憑神の垣根を乗り越えて新たな連中が廊下に入り込んでくる。
「やけど、ウチにはあの子を砕けへんから、こうするしかないんや!」
踏みこみと共に錫杖で憑神の足元を払い、バランスを崩して転倒する一体の額に向けて、そのままの勢いで錫杖をたたきこんだ。
転倒しつつあったため、避けることも防ぐこともできず、衝撃を受けてコアが砕ける。
「美影君がそう言うのなら、仕方がない」
妖魔の左手が手近にいた憑依神の顔面を掴み、右手がその腹に触れる。
すると右手の指が全くばらばらに動き、憑神の腹に模様を描いた。三つの丸と三角形が大きな二重円に囲まれている模様だ。
そして妖魔が右手を憑神の腹から指を離すと、模様が赤く燃え上がった。いや、赤く発光し、その直後に模様から炎が噴き上がったのだ。
ガスコンロの強火程度の炎だというのに、憑神の身体は腹の模様からジェット噴射でもしているかのように妖魔の側を離れ、廊下の半ばに並び立つ憑神達の垣根へ飛んで行った。
ジェット憑神が憑神垣根にぶつかるが、止まるどころか垣根を成していた憑神、その後ろにいた憑神を巻きこみながら加速し、廊下の突き当たりへ飛んで行った。
「…!」
「…!…!」
憑神達が声にならぬ驚きを漏らしながら、一体となって廊下の突き当たり、エレベーターホールの壁に衝突した。
足元から響く低い振動と、腹を打つ重い衝撃音に、全滅とはいかないまでも十体前後の憑神が行動不能になったであろうと美影は推測した。
だが、それはもともと身動きの取れなかった垣根の憑神や、避けることのできなかった連中である。
廊下に立ち、美影たちに視線を向ける数体は、妖魔の行動によって厳選された憑神なのだ。
無表情ないくつもの目が、コアを背後に立つ美影と妖魔を捉えていた。
一斉に憑神達が向かってくる場合を想定し、美影は跳躍して距離を取りつつ、一体ずつ相手にしていくことにした。
しかし、憑神達は向かって来るどころか、廊下の壁に寄って通路を開けた。
美影の目が左右に分かれた憑神達の間に導かれ、立ちふさがる一体の憑神を捉えた。
肩から先が幾本にも枝分かれし、先端を鋭く尖らせた憑神。
照明の下で初めて見るその姿は、数時間前、路上で警察官を襲っていた者と変わりがなかった。
「……」
「……」
蟹の脚を思わせる腕を持つ憑神と美影の視線が交錯し、言葉がなくとも互いの思いが通じ合った。
「なるほど、手出し無用という訳だね」
妖魔がそう呟き、美影の視界の外へと退いた。
美影が錫杖を握り直し、憑神が枝分かれした腕の先端を擦り合わせた。
金属の輪がぶつかり合って音を立て、刃物と化した腕が鳴る。
そして、どちらからともなく美影と憑神が床を蹴り、距離を詰めた。
振り下ろされる三本の先端を錫杖をかざして防ぐと、美影は憑神のスネめがけて蹴りを放った。
憑神は足をさばいて蹴りをかわし、その際の体重移動を利用して、反対の腕ですくい上げるような一撃を美影に向けた。
美影は錫杖の角度を変えて、受けていた上段からの一撃を滑らせると、下から迫る鋭利な先端を弾いた。
互いに位置を変えながら錫杖と刃を交わすわけでもなく、距離を取って術符と魔術が飛び交い爆音と振動を生むわけでもなく、ただ二人は錫杖と腕、足と石突をぶつけ、逸らし、かわし、やり過ごしていた。
相手を一撃で仕留めるだけの大技を出す隙が、互いに生じず、生じさせまいとしているためだ。
一撃と一撃が交錯し、決着の時を引き延ばしていく。
このまま勝負を引き延ばせば、大神達の突入まで耐えられるかもしれない。
しかし、実力のひっ迫した相手に、止めを刺せるチャンスを見逃せるほど美影には余裕がなかった。
右からの憑神の刃を錫杖で受け流しつつ、その勢いを一部借りて錫杖の開店を加速させ、横殴りに叩き込む。
だが、その一撃は憑神の枝分かれした腕によって逸らされた。
勢いが横滑りし、錫杖があらぬ方向へ流れていく。幾度目になるか分からぬ攻防だが、それが彼女の狙いだった。
美影は、自らの腕の勢いを殺しつつ、どうにか踏みとどまった。そのまま力を減じずに、錫杖に触れる腕を押し込む。
「…!」
不意に変化した錫杖に加わる力に、憑神が僅かながら驚きの気配を漏らす。
そして腕の角度を変え、じりじりと押し込まれる錫杖を逸らそうとした。
しかし美影も、錫杖を滑らせて隙を生じさせまいと、力加減を調整しつつ耐える。
(あかん、どなんしよ…)
僅か数十秒で、状況は早くも膠着状態にもつれこんでしまった。
このままでは、美影の筋力が弱まり、劣勢に追いやられてしまう。
だが、千日手の様相を呈し始めている以上、こちらから動くのは得策ではなかった。
「……よし、できた」
状況の打開を必死に模索している彼女の耳を、妖魔の声が打った。
顔を動かす余裕もなかったが、つばぜり合いをする憑神の目が、彼女の後ろの方に向けて大きく見開かれる。
「手出し無用という雰囲気だから、正直こういうことをするのは気が引けるけど」
廊下の壁に並ぶ憑神たちが、膝をかがめ、一斉にこちらに向けて駆け寄ろうとする。
「だけど状況が状況だし、仕方が無い」
錫杖を押す憑神の力が弱まり、美影はその隙を突いて錫杖を引き、バランスを崩して前のめりになる憑神の顎に肘を打ち込んだ。
そしてその勢いを利用して身を反転させ、背後に顔を向けた。
「美影君が嫌がるなら」
視線の先、廊下の突き当たりの扉の前に立つ妖魔は、美影に背を向けるようにして立っていた。
ただ、その左ひじから先は美影の背丈ほどまでに長くなっており、肘から指先に向けて帯状の光が明滅していた。
「私が砕こう」
その一言とともに、妖魔の指先から光が迸った。
指先ほどの何かが発光し、流れ星のように光の尾を引きずりながら、部屋の奥へと飛んでいく。
美影の両脇を、憑神たちがゆっくりと通り抜けていく。
美影自身の腕が、ゆっくりと妖魔の背中へ、その向こうにあるガラスの円筒に向けて掲げられる。
何もかもがゆっくりと動く世界で、流星はテーブルを通り過ぎ、ケーブルの上を通過し、ガラスの筒にぶつかった。
透明で滑らかな円筒にひびが入り、見る見るうちに広がっていく。だが、ひびが掌二つほどの大きさに広がるころには、光る何かは円筒の内へ入り込んでいた。
円筒を満たす液体は光弾を止めるには及ばず、ついに頭を下にして浮かぶ少女の胸に、流星が突き刺さった。
薄い彼女の胸を流星が穿ち、体内へ入り込む。
美影が見ることができたのはそこまでだった。その直後、掌三つほどの広さのひびが生じたガラスの円筒が、急に内部の液体がその量を増したかのように内側から破裂してしまったからだ。
円筒の表面が一瞬にして白いひびに覆われ、直後細かな破片と液体をまき散らしながら破裂する。
妖魔の背中に向けて駆け寄ろうとしていた憑神たちが、不意にバランスを崩して転倒し、廊下に倒れ込んだまま動かなくなる。
そこまでがゆっくりと美影の前で繰り広げられると、何もかもが普通に動き始めた。
円筒の中から飛び散った液体が床を濡らし、じわじわと部屋の床を広がっていく。
まだ倒れていなかった憑神たちが床に転げ、衝撃を数度のバウンドで殺して静止した。
美影と妖魔以外のほぼ全てが、倒れ、壊れ、止まっていた。
「美影君」
細長く伸びた左手を、元の長さに縮めながら、妖魔は美影に背を向けたまま呟いた。
「美影君がコアの境遇に同情し、見逃してやろうとしたところで、後で悔やむだけだろう」
美影はその背中と、砕けたガラスの筒と、床に広がる液体と破片を見つめたまま、ただぼうぜんと立ち尽くしていた。
「人と憑神は、まったく別の存在だ。たとえ元は家族であっても、共存はおろか互いに理解することなどできない」
振り返ることなく、妖魔は続ける。
「美影君が私を理解できないように、ね」
白い破片の混じった液体が、廊下へと流れ出してきた。






数十分後、警官たちは妖魔によって解放された入り口から、カナミズ総合病院へと入って行った。
一時的とはいえ閉じ込められたという患者たちの証言に、地下に転がる憑神達と、砕け散ったコア。それだけでも、院長の管理不行き届きにより、憑神とシステムが暴走したのには十分な証拠だった。
「……」
病院の駐車場に止められたパトカーの後部座席に腰掛けた美影は、無言で病院入口を出入りする人々を見つめていた。
警官に、カメラや箱を抱えた鑑識に、入院患者の容体を診るため駆り出された医者や救急隊員。
やがて、出入りする人々の列が割れ、院内から三人の男が出てきた。
金水院長と、その両脇を支える警官二人だ。
院長は薬物から目覚めているようだったが、その表情に生気はなく、等身大の人形を警官二人が抱えているようにも見えた。
無理もない。長年苦労して構築したシステムが暴走し、眠らされている間に破壊されたのだ。
美影の視線の先で、院長は敷地内に停車しているパトカーの一台に乗せられた。
そこまで見たところで、不意に彼女の視界の外からこんこん、とガラスを叩く音が響いた。彼女が目を向けると、大神がパトカーの側に立っていた。
「入るぞ」
彼はそう言いながら扉を開き、美影の横の席に腰を下ろした。
「まずはお疲れさん、よくやったな」
「ウチはほとんど何もしてへんよ」
「アイツから大体聞いてる」
美影の言葉に、大神はそう返した。
「病院の閉鎖を解除したのも、大部分の憑神を停止させたのも、病院のコアを砕いたのもアイツだったな」
「そうや」
美影は深くため息をついた。
「コアにされた子のことを考えてしまって、コアを砕けへんかったんよ」
「まあ、容疑者の境遇に同情してしまう警官もたまにいるからな。仕方のないことだ」
彼女の言葉に、大神は相槌を打った。
「だがな、境遇がどうであれ、病院憑神が人を傷つけたことに変わりはない。境遇は境遇、罪は罪だ。アイツがコアを砕かなければ、もっと被害が出ていたかもしれない」
美影は、無言のまま窓の外へ視線を向けた。
院長が載せられたパトカーのランプに明かりが灯っていた。そしてパトカーはエンジン音と共に、病院の敷地を出て行った。
「さて、ここから先は警察の仕事だ。今日のところは帰って休むといい。誰か呼んで、家まで送らせる」
大神はそう言うと、ドアに手を掛け、開いた。
「…大神さん」
「何だ?」
「大神さんは…この病院が何もかもうまくいっとったら、憑神と人間が共存できたと思う…?」
「…さあ、な…多分、憑神が人間をどうにかしてるうちは、共存なんてできないだろうな…」
大神はドアを開けたまま、そう答えた。
「そうか…ありがとな、大神さん」
「ああ…じゃあ、人を寄越すから、それまで待っていてくれ」
彼はパトカーから降り、扉を閉めると、病院の方へ向けて歩いて行った。
「……」
ドアが閉められたことで、外の喧騒から切り離された車内で、美影は低くため息をついた。
『人と憑神は、共存も理解もできない。美影が妖魔のことを理解できないように』
あの妖魔は美影に向けてそう言っていた。
言葉をそのまま受け取るなら、美影はコアになっていた少女の境遇を推測し、彼女を理解したつもりになっていたのだろう。
そして妖魔は美影の葛藤を理解していない様子で、美影も妖魔の躊躇いのなさを理解できなかった。
妖魔は人の感情から生じ、憑神は人を取り込む。人が関わっていると言えども、別の存在だから理解は不可能なのだ。
「……」
美影は、深くため息をついて窓の外を見た。
夜明けが近いのか、藍色の空が薄く照らされている。
だが辺りや街は、まだ暗かった。




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