ミカゲィト〜水晶壁〜
石畳を鳴らしながら、少女が回廊を歩いていた。
少女の名は鈴華美影。
故あって、このダンジョンに巣食う妖魔の調伏に来ているのだ。
敵陣に単身乗り込むだけあって、その装備はいつにもまして強い物が揃えられていた。
普段と変わらないように見える巫女装束には、裏地に護身の護符が幾重にも縫い付けられており、懐には戦闘を有利に進められる札が忍ばせてあった。
そして手に握る錫杖にも、いつもの使い慣れた物に妖魔殺しの巫術が縫い付けられたものを巻きつけてある。
この装備ならば、多少の妖魔の一撃ぐらいではその玉のような肌に傷一つつけられず、逆に錫杖の一撃で妖魔が滅せられるだろう。
だが、彼女は自身の装備を過信することなく、ダンジョンの回廊の先と背後はもちろん、天井の暗がりや石組みの壁の継ぎ目にさえ注意を払っていた。
ダンジョンに巣食う妖魔の正体は不明だ。液体の身体を持つ妖魔ならば壁の継ぎ目から滲み出ることもできるし、影に潜む種類ならば天井の暗がりから忍び寄るかもしれない。
ありとあらゆる可能性を考慮しながら、彼女は足を進めていた。
程なくして、彼女の足が止まる。
一本道であったダンジョンの回廊に、初めて分かれ道が現れたからだ。
正確に言えば、石組みの壁に穿たれた脇道というべきものだった。
美影のより一回り程大きい程度の四角い穴に、彼女は忍び寄ると、そっと顔だけをのぞかせた。
磨かれたように滑らかな壁面の回廊がしばらく続き、その先に明るい光が差し込む出口があった。
どうやら、回廊の向こうは部屋になっているようだ。
美影は顔を脇道から通路へ戻すと、先の薄闇を凝視した。
少なくとも、見える範囲に他の脇道や扉などは見えない。
このまま延々と続く一本道を進むよりは、脇道に入って部屋を調べた方がいいだろう。
勿論、すでに彼女が敵の幻術に嵌まっており、この部屋へ誘い込まれているという可能性はある。
だが、このまま通路を進んだところで、敵の幻術で延々と通路を進まされるか、またこの脇道へ導かれるだけだろう。
どちらにせよ、こちらから動かなければ変化は現れないのだ。
彼女は意を決すると、脇道に足を踏み入れた。
磨き上げられたような平らな石畳の床を彼女のつま先が捉え、一歩二歩と進んでいく。
通路の石組みはしっかりとしており、継ぎ目は剃刀一枚差し込めないほどにきっちりと石がはまり込んでいた。
もしかすると、妖魔の根城が近いのかもしれない。
胸中で膨らむ予想に、期待と緊張が美影を満たしていく。
だが、通路の出口が近づくにつれ、彼女は微かな違和感を覚えつつあった。
通路の向こうから差し込む光が、どこかおかしいのだ。
だが、通路を進む彼女に違和感の源を探るすべなどなく、ただ足を進めるほかなかった。
やがて、彼女が通路の数歩手前にまで迫ったところで、その足が止まった。
「…何コレ…ガラス…?」
彼女の視線の先にあったのは、通路の出口をぴったりと覆う透明な板だった。
遠目には見えぬほど透明に磨かれた板に手を伸ばすと、ひんやりとした感触が指先に伝わった。
ガラスではない。水晶だ。
だが一つの結晶から削り出したにせよ、妖魔が自分の力で練り上げたにせよ、この先に進めないことに変わりはない。
「しゃーない、ぶち破ろか…」
そう決めて彼女が水晶の壁から指を離し、錫杖を構えなおした瞬間、彼女の背後から重い音が響いた。
「なんやっ!?」
美影が振り返ってみると、つい先ほど彼女が入ってきた脇道の入り口が、石の壁にふさがれていた。
退路を断たれた、と美影の脳裏に危機感が浮かぶが、それを更なる危機感が上書きした。
石壁が、音を立てて動き出したのだ。
ぎし ぎし ぎりり ぎし
軋みと擦過音を立てながら、石の壁がじりじりと通路の向こうから美影向けて迫ってくる。
ようやく彼女は、何故通路の壁面が見事なまでに平らだったのかに納得がいった。だが、感心する暇はなかった。
この場から脱出しなければ。
すぐそばの水晶壁に向き直ると、彼女は錫杖を振り上げた。
「せいっ!」
気合いの一声とともに錫杖が石壁を打つが、錫杖は弾き返されただけだった。
何か細工してあるのか、水晶が固いのだ。
「ええい、もう…!ていっ!」
錫杖を握り直し、踏込を加えつつの突きを放つ。
しかし裂帛の気合を込めた一撃も、水晶の壁は弾き返してしまった。
「なんやの、この…」
微かに痺れる手指を振りながら、彼女はぼやいた。
肩越しに背後を振り返ってみれば、通路をふさぐ石壁はすでに半ばまで迫っている。
「急がんと…!」
内心の焦りを抑え込みつつ、彼女は水晶壁に向き直った。
そして突き、上段からの振りおろし、体重を乗せた吶喊など、人はもちろん妖魔にとっても即死や致命的となる域の技を繰り出した。
だが骨を砕き、頭蓋を割り、その体を貫くはずの錫杖の一撃は、いずれも頑強な水晶壁の前に弾かれ、逸らされ、受け止められていった。
「こぉの…っ!?」
助走を着けての一撃を加えようと美影が数歩退いた瞬間、その背中が固く平らなものに触れる。
とっさに振り返れば、そこにはじりじりと迫る石壁があった。
もう、水晶壁まで十歩ほどの所にまで迫っていたのだ。
「あかん…!」
彼女は懐に手を突っ込み、お札の束を取り出した。
爆破の術符を使うためだ。もちろん、この至近距離で使えば自分も無傷では済まないだろうが、巫女装束に仕込んだ護符を信じ、残りは油断した自分への戒めとするほかない。
しかし、彼女の指がお札をめくれどもめくれども、現れるのは影縛りや身隠し、人払いといった術符ばかりだ。
そして、最後の一枚まで確かめたところで、彼女は思い出した。
爆破の術符は、ダンジョンで使用すると崩落の可能性があるから、と持ってこなかったのだ。
「しもた…あかん…」
準備時点での致命的なミスに、彼女は内心歯噛みした。
だが一瞬で心中の後悔を追い出すと、彼女は身を反転させつつ、握る札の中から数枚の術符を飛ばした。
張り付けた相手の動きを封じ込める『身縛り』の術符が、迫る石壁に貼り付けられる。
術符がぼんやりと光を放ち、その効力を発揮した。
じりじりと迫りつつあった石壁が、重い音とともにその動きを止めた。
「まだや…!」
美影は動かなくなった石壁に向けて、手元に残る身縛りの札を全て飛ばし、重ね掛けした。
二十枚ほどの札が、石壁の半分を覆い隠している。
これでしばらくは大丈夫だろう。
彼女は残った札を懐に収めると、石壁に向けて突きを放った。
石壁の表れた位置や回廊の様子から考えれば、この石壁はそこまで厚くないはず。
そう判断しての一撃だったが、錫杖の石突は壁の表面を浅く削るのみだった。
だが、彼女は諦めなかった。
少しだけ削れた石壁の一点へ向けて、突きを振り下ろしを打ち込んでいく。
一撃一撃が、少しずつ石壁を削っていく。
まるで、一撃を重ねていけばいずれは石壁を破れるとでも言うかのように。
程なくして、身縛りの術符に灯った光が弱まり、ついには最初に張った数枚が効力を失った。
そして後に続くように、術符から一つまた一つと光が消えていき、ただの紙へ戻っていく。
そして、美影が十何度目かの突きを打ち込んだ瞬間、石壁がぎしりと軋みを立てた。
彼女の一撃に石壁が破れかけているわけではない。術符の効力が破られそうなのだ。
直後、石壁を縛っていた術符から光が消え去り、ぎしぎしと軋みを立てながら再び壁が迫り始めた。
「…くっ…」
小さく呻くと、美影は掌ほど削れた石壁に向けて、さらに錫杖を叩き付けた。
もはや幾度かわからないが、石壁が僅かばかり削れる。
続く一撃のため、錫杖を振り上げた瞬間、その一端が背後の何かに当たった。水晶壁だ。
もはや石壁と水晶壁は、美影が大立ち回り出来ないほどまでに迫っていた。
もう、全力で錫杖を振り回すことはできない。そう判断すると、彼女は手にしていた錫杖を平行に構えて石壁の削れた部分に石突を当て、もう一端を水晶壁に当てた。
石壁が迫るにつれ、削れた凹みに錫杖が食い込み、水晶壁が錫杖を支える。
美影はちょうどつっかい棒のようになった錫杖から指を離すと、石壁に身を寄せ、凹みに手を伸ばした。
そして、削れた石壁に爪を立て、少しずつ石の切片を削り取り始めた。
「急がんと…急がんと…」
かりかりかりかり
ひっかくのに合わせ、ぽろぽろと石壁から欠片が剥がれ落ちていく。
しかしそれは微々たる量で、先ほどまでの錫杖での一撃には遥かに及ばなかった。
みしり
「!?」
錫杖から、聞いたこともない音が放たれ、彼女は思わず動きを止めた。
顔を向けてみれば、まっすぐなはずの錫杖が僅かに曲がっているようにも見える。
時間があまりない。
「い、急がんと…!」
かりかりかりかりかりかり
爪を立て指を動かし、ひっかき、削り、剥がす。
少しずつ剥離していくごくわずかな石の粉に、彼女は石壁が破れる可能性を見ていた。
そして軋みを立てながら少しずつ曲がっていく錫杖に、必死に平静を装う彼女の理性の一枚下で、焦燥が意識を焦がしていく。
内心の焦りは彼女の肉体に伝わり、全身に汗をにじませ、心臓の鼓動を速め、指に力を込めていく。
壁をひっかく爪に力が籠り、ついに美影の柔らかな指先が小さく裂けた。
「っ!」
指先に走る小さな痛みに、彼女が小さく声を漏らす。
だが一瞬止めてしまった指を、彼女は何のためらいもなく動かした。
痛みに惑わされて指を止めていたらどうなるか、彼女の脳裏に浮かんだからだ。
いずれ錫杖は折れ、石壁は動き始めるだろう。
そして美影が身動きできる領域は無くなり、水晶壁と石壁の間に挟み込まれるのだ。
水晶壁の冷たさを感じるのは一瞬。後から彼女を苛むのは、圧迫感と息苦しさだ。
しかも、その二つは刻一刻と強まっていく。
圧迫感は直に彼女の呼吸を封じ、息苦しさは現実となるのだ。
だが窒息よりも先に、二つの壁に挟まれた肋骨と頭蓋が悲鳴を上げ始める。
みしりみしりと言う音が、体内を伝わって耳に届き、耐えられなくなった肋骨が鋭い痛みとともにぱきりと音を立てて折れるのだ。
そして頭蓋が圧迫されるにつれて、今度は頭の中で軋みが生じる。
そして鋭い痛みが直に施行に突き刺さる中、美影の脳裏に何が浮かぶのだろうか。
「い、いやや…!」
一瞬の間に脳裏に浮かんだ、もしも、の光景に彼女は思わずそう漏らした。
指先は血で濡れ、爪にもひびが入っている。
だが、彼女は手を止めるわけにはいかなかった。
ほんのわずかずつでも、石壁を削り切片を削ぎ落とし、へこみを広げて穴を広げなければならないのだ。
さもなければ。
(死んでまう…!)
赤く滑る指先で、石壁のへこみを削り広げながら、彼女は心中で叫んだ。
あと少しで破れる。あと少しで壁に穴が開く。
そう信じながら、彼女は壁を掻き毟り続けた。
そして、美影にとっては一瞬とも永遠とも、数秒とも数時間とも思える時間が過ぎた頃、小さな音が響いた。
みし みしみし
今までとは明らかに違う、決定的な軋みが傍らの錫杖から放たれる。
おそらく、錫杖にひびが入り限界までたわんでいるのだろう。
それを確認しようと美影が顔を横に向けた瞬間、目の前で弓なりに曲がっていた錫杖が爆ぜた。
「っ!」
飛び散る破片から顔を逸らした直後、視界の端にあった石壁が急速にその領域を増した。
押しとどめられていたのが一気に動いたのだ。
「あ…」
後悔よりも恐怖よりも絶望よりも先に、驚きが彼女の心を満たした。
そしてその先に意識が及ぶ前に、彼女の全身を石壁と水晶壁が挟み込んだ。
衝撃が、彼女の全身を打ち据えた。
気が付くと全身がひんやりとしており、何かに押し付けられているような圧迫感があった。
圧迫感から逃れようと暗闇の中で身体を動かそうとするが、美影の身体はおろか指一本すら微動だにしなかった。
(あーあ、死んでしもたんか…)
全身を包み込む、妙な感覚に美影は内心そう呟いた。
彼女にとってのつい先ほどまで、心中を焦がしていた焦燥は跡形もなく消え去っており、妙な冷静さが彼女の心を満たしていた。
「おおう、これは素晴らしい…!」
不意に、闇の中から響いた声が彼女の耳を打った。
冥界の使者か、地獄の獄卒だろうか?
だが彼女の予想にそぐわない言葉を、声の主は続けた。
「これだから水晶壁の罠はやめられないのだ…」
(何のことや…?)
彼女の心中に疑問が起こる。
この口ぶりは、まるで彼女がつい先ほどまで潜っていたダンジョンの主のそれの様ではないか。
だが、確かめようにも目の前が真っ暗で、彼女には何も見えなかった。
(いんや、違う…目ぇ閉じとっただけや)
最期の瞬間に、思い切り閉ざしたまま強張った目蓋の筋肉に、彼女はようやく気が付いた。
そして、指先と同じようにどうせ動かないだろうという諦めを抱えながらも、彼女は目蓋にこもったままの力を抜いた。
暗闇に光が差し込み、痛いほどに目を射る。
(…っ…!)
眩さに胸中で呻きながらも、彼女は両の目を開いた。
すると彼女の目に入ったのは、絨毯の敷かれた床と石組みの壁、そして天井から吊り下げられ煌々と光を放つシャンデリアだった。
(ここは…)
最期に見た景色とは違う気がするが、壁の石の色や組み方がダンジョンの壁に似ているように美影には思えた。
「おお、目が覚めたのかね!」
再び声が響く。
だが、目を左右に向けども声の主の姿は見えず、ただどこかの一室が見えるばかりだった。
「こっちだ、下だ!」
声の導きに視界を落としてみれば、そこには一体の妖魔が這いつくばっていた。
絨毯敷きの床にうつぶせになり、首だけをねじって下から美影を見上げるように顔を向けている。
「やあ、私は…まあ、名前などどうでもいい。私はこのダンジョンの主だ。遅くなったが、ようこそ我が居城へ」
妖魔は這いつくばったままそう名乗りを上げた。
「さて、君の侵入は最初から気が付いていたが、こうして目を合わせるのは初めてだ。実に綺麗な瞳をしているね。いい目だ」
「はぁ…どうも…」
妖魔らしからぬ主の言葉に、美影は思わずそう返していた。
「うむ、目と口は問題なく動くようだな。よろしいよろしい」
妖魔がぐりぐりと頬を絨毯に擦り付けた(たぶん頷いているのだろう)ところで、美影は自身が喋れたことに気が付いた。
「私が自ら開発した、『侵入者捕獲&絵画ネイショントラップ』の働きによるものだよ」
彼女の瞳に浮かんだ疑問を読んだのか、妖魔がそう説明した。

「まあ、簡単に言うと君はあの後、水晶と石の壁に挟み込まれ、そのまま生ける絵画となってしまったのだ」
生ける絵画。その単語に、彼女は自身がどうなってしまったかを理解した。
「しかし、このトラップで侵入者をコレクションするようになって長いが、君のような傑作が手に入るとは思わなかった」
内心パニックに陥りかけていた美影に、妖魔がそう語りかける。
「そのほっそりした肢体は本来ならば彫刻にすべきなのだろうが、こうして絵画にしてみてもなかなかどうして、ポーズと相まってこれほどの慎ましやかな美を演出するとは思わなかった」
水晶壁と石壁に挟み込まれる一瞬の間に取った姿勢が、彼の言う美的なポーズになっているのだろうか。
だが、なぜこの妖魔は傑作を正面から見据えるのではなく、わざわざ這いつくばってまで下から見上げているのだろうか?
錯乱しかけた美影の意識に、疑問の制御棒が差し込まれる。
「ああ、実にすばらしい。曲線と直線が滑らかに接続され、曲線と曲線が交差して面を描き出している。そして面と面の交わりが奥行と柔らかさ、そして体温を演出し、平面に立体感を与えているのだ。
だがそれだけならば、君ではなく豊満な女性を絵画にした方が映えるだろう。しかし豊満な女性では、この奇跡を描き上げることはできないはずだ」
そして、続く言葉が彼女の胸中の疑問を全て氷解させた。
「ああ、見えそうで見えない」
「イヤァァァァァァアアアアアアアアアアッ!!??」
内また気味に寄せられた両足を思い切り閉じ、巫女装束の裾を両手で抑え込もうと彼女は全力を四肢に込めた。
だが、彼女の死体はピクリとも動かず、全力の悲鳴だけが辺りに響いた。
「ああ!今ので動いたのなら少し見えたかもしれないのに!でもこのポーズが変わってしまうのは限りなく惜しい!」
「やめてぇぇぇぇぇえええええ!」
「ううむ!今全力で顔を振ろうとしただろう!その姿勢が見れないのは残念だが、この奇跡が変わらぬことに私は安堵している!私は喜べばいいのか、悲しめばいいのか、どっちなんだ!
教えてくれ、美影君!」
「知るかああ!ダアホォォォォ!」
身体が動かない分、彼女は全力で声を迸らせた。
「うむ!眠れる美少女の奇跡の体現も良かったが、こうやって表情がころころ変わるのもいいなあ!
やはり人間は面白い、面白いぞ美影君!ありがとう!」
「いいから、ここから出しやぁぁぁぁあああ!」
「安心したまえ!この術は私が死ねば自動解除される!そして私は君という奇跡を目に焼き付けながら、この場で餓死しようと思う!だから私が死ぬまで待っていてくれたまえ!
あ、いや待てよ…」
妖魔は言葉を切ると、懐をごそごそと探って何かを取り出した。
「ついでだから知り合いに自慢してから餓死しよう」
「いやあああああああ!?」
携帯?で仲間を呼ぶ妖魔に、美影は全力で悲鳴を上げた。
残念!美影君の冒険はここで一時中断だ!
妖魔が力尽きるのを待ってから、恥を忍んで再開しよう!